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【エッセイ】拝啓、父上さま

今、テレビがないというのはむしろ新しい風潮なのかもしれない。実際、知人の何人かは持っていない。ニュースもドラマも、おおよそのことはスマホで足りてしまうらしい。
けれど20年以上前、こと中学生だった私にとって、テレビが見られないことは一つの事件だった。

なぜか突然、父が家にいた時期があった。
いや、それまでもいたのだけれど。
物心のついた頃から判を押したように、同じ時間に家を出て、帰ってくる父だった。
満員電車が嫌だからと、朝は始発で会社へ行く。早すぎるから、名駅地下街の喫茶店でモーニングを食べ、帰りは残業が嫌だからと六時前には帰宅する。
「何か変わったことはあったか?」
それが口癖だった。その父が。
ワイドショーが始まる時間になっても家にいた。学校から帰れば、母より先に出迎えてくれた。

たしか一年くらいだったと思う。まるで糸が切れた凧のようだった。
私は当時14歳で、家と学校を往復する日々。夏休みみたいな父が正直うらやましかった。
父も暇だったんだろう。よく宿題を見てくれたが、答えの大半は間違っていた。

ある日、家に帰るとテレビがなかった。父が物置にしまったらしい。
「子どもたちが家に帰るなりずっとテレビを見ている。けしからん」
それが理由。日がな家にいるせいか、いろいろ目についてしまう父だった。

私はハンガーストライキを起こし、食事を食べなかった。三日目の朝、父がこれみよがしに「母さ〜ん、ステーキ焼いて〜」と言い、私はサーロインの匂いを振り切るように学校へ行った。五時限目のチャイムが鳴った後コンビニにダッシュし、小遣いで買ったハムエッグパンをむさぼるように食べた。当時愛し合ってるか〜い!と言うドラマが流行っていたが、その話題に加われることはなかった。

テレビが戻ったのは、一年以上経ってからだ。ほぼ同時に父は働きはじめた。ふたたび始発に乗り、夜のニュースの時間には家にいた。そうして働きつづけ、兄と私を大学に行かせた。
一体あの一年は何だったんだろう。昼も夜も父がいたあの日々を、私はたまに思い出す。働きづめだった父の、空白のような日々。ただ父にとっても、私たちにとっても必要な”空白”だったに違いない。

戦争で父を亡くした父は、女手一つ育てられかなり苦労をしたらしい。
学費のために稼いだ金は生活の足しに奪われ、高校にも行けなかった。灯りのない中で本を読み、目を悪くした。
それでだろうか。
昔からおもちゃは買ってくれなかったが、本だけは買ってくれた。夕飯のあとは散歩がてら近所の本屋に一緒に行き、一時間ほど過ごすのが日課だった。

社会人になり何年目かのある日、父の誕生日にノートパソコンを送った。
元来まじめな父はあっという間におぼえ、好きな曲をダウンロードし、ディスクに焼いたりするようになった。

先日、久々の帰省の際に開いたら、デスクトップに見慣れないWordのファイルを見つけた。興味深く開いてみると、手紙とも独り言とも取れない短い文章が並んでいて、その中にこんな一文があった。

“泰子さん、もののあわれのわかる人になってください”

私は今も父のことがわからない。きっと経験不足なのだろう。

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