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眞鍋惠子評 ウォルター・アイザックソン著『コード・ブレーカー――生命科学革命と人類の未来』上・下(西村美佐子/野中香方子訳、文藝春秋)

評者◆眞鍋惠子
生命の秘密をめぐる冒険――「遺伝子の革命」を担った女性科学者がコロナとの戦いのあとに目指すものは?
コード・ブレーカー――生命科学革命と人類の未来 上・下
ウォルター・アイザックソン著、西村美佐子/野中香方子 訳
文藝春秋
No.3574 ・ 2023年01月14日

■二〇一九年十二月中旬、中国湖北省武漢市で原因不明の肺炎患者の発生が確認される。二〇二〇年一月九日、最初の死者の報告。三月十一日、WHOが新型コロナウイルス感染症についてパンデミックを宣言。三月十三日、カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスの一角で科学者と研究者によるコロナ対策会議が急遽開かれる。この開催を呼びかけたのが本書のヒロイン、ジェニファー・ダウドナだ。遺伝子編集技術「クリスパー」の生みの親として知られ、同年ノーベル化学賞を受賞した生物学者である。
 ダウドナは七歳でミシガンからハワイへ移り住み、豊かな自然に囲まれて成長した。父と散策しながら「自然の中の面白いものを探すのが好き」だった。六年生の時、遺伝の基本物質DNAの構造解明への道のりを描いたドキュメント、ジェームズ・ワトソンの『二重らせん』を読んで科学者になることを決意する。その後ハーバード大学で、RNA(DNAが蓄積・保存する情報の伝達、触媒などの働きを持つ分子)の研究を始めた。
 著者のウォルター・アイザックソンは米国のジャーナリストであり、当代きっての評伝作家である。スティーブ・ジョブズ唯一の公認伝記『スティーブ・ジョブズ』や『レオナルド・ダ・ヴィンチ』などの著作で知られる。今回彼が物語るのは、クリスパー・システム(細菌が新しく出会
ったウイルスと戦うための免疫システム)を発見し、「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム(遺伝子情報)編集技術を開発したダウドナの人生だが、その偉業を可能にした多くの科学者たち、上司や仲間、ライバルも次々に登場し、一大群像劇を見るようだ。また、現在も続く新型コロナ感染症との戦いの描写も生々しい。血湧き肉躍る冒険小説を読んでいるような心持ちになる。
 ダウドナは粘り強く探究心が旺盛で、その微笑みの奥には激しい競争心が隠れている。一方で人と協力しチームをまとめる能力にも長け、自分の研究室やベンチャービジネスを立ち上げていった。そして一歩一歩クリスパーの基礎科学を臨床での応用に結び付けようとしていく。時には、研究室から巨大ベンチャー企業に2か月間だけ誤って移籍してしまったり、ライバルにだまされて体調を崩したりしたことも。それでも、さまざまな苦難を乗り越え自然に対する純粋な好奇心を捨てることなく研究を進めた。
 多くの研究仲間が登場するが、ノーベル賞を共同受賞したフランスの生物学者、エマニュエル・シャルパンティエは中でもミステリアスで魅力的な人物だ。プロのバレエダンサーを目指したこともある彼女は芸術と科学の共通点を挙げている。「どちらも方法論が大切よ……実験で遺伝子のクローンを作る時には、DNAの準備を完璧にして、何度も何度も繰り返すけれど、……バレエダンサーが同じ動作と方法を一日中繰り返すのと何も変わらない」……「基本作業をマスターしたら、創造性を加えなければならないという点も、科学と芸術は似ている」.
 ダウドナの一番のライバルは、中国出身の科学者フェン・チャンだろう。クリスパーをヒトゲノムで機能させる論文の発表時以来ずっと、特許申請などさまざまな場で激しく競い合ってきた。チャンは恩師に秘密裏で研究を進めたり、共同研究者の名前を特許出願書類から勝手に削除したりするような何でもありの人物だが、彼を相手にダウドナは華麗に戦い続けてきた。
 やがてコロナ感染症の来襲が全ての流れを大きく変えた。ダウドナは二〇二〇年三月の会議で十のプロジェクトを立ち上げた。コロナウイルスを検出するラボを短期間で開設し、新たなコロナ検出法の開発にとりかかる。その後RNAを活用したワクチン、ひいては抗ウイルス薬の開発が世界中で進んでいく。そこには今までにない科学者同士の連帯があった。これまで長い間続いてきた、特許や賞を獲得するための競争による研究成果の秘匿や競合企業設立が影をひそめた。コロナウイルスとの戦いの緊急性が研究成果の共有を促し、皆がひたすら解決策を求めて動くようになったのだ。さらには科学が日常に近づいたのも確かだ。多くの論文が学術雑誌を経ることなく査読前論文サーバに投稿された。情報が自由に共有され一般市民が科学の進歩を把握できるようになっている。コロナ禍が新しい時代の門を開いたのかもしれない。
 クリスパーで遺伝しないゲノム編集を行う病気治療は広がっている。例えば鎌状赤血球貧血症や癌、失明などが対象だ。しかし現在のところその費用は莫大であり、富裕層と貧困層の健康格差を広げる恐れが指摘される。ダウドナはそれを避ける方法を模索している。
 それでは遺伝するゲノム編集をどう考えるか。遺伝子に手を加えれば遺伝病、自閉症、聾などの障害をなくし、アスリートの運動能力、身長、兵士の能力、知性などを世代を超えてコントロールできる。どこまで許されるか、際限なく神の領域を侵すことにならないかと、ゲノム編集技術が生まれた頃から一部の人々は危惧し、警告してきた。しかし名誉欲に取りつかれた中国人科学者が二〇一八年、ガイドラインを無視して初期胚でゲノム編集を行い、HIV耐性を獲得したクリスパー・ベビーを誕生させてしまった。時期尚早な暴挙は彼の有罪判決で幕を閉じたが、倫理的な問題は取り組まなければならない大きな課題だ。人類は生物の進化において初めて遺伝子構造を編集する能力を手に入れた。多くの致死的な病気を治せるかもしれない一方、筋肉や記憶力に手を加えることもできる。行き着く先がオルダス・ハクスリーのSF小説『すばらしい新世界』となったら恐ろしいが、その可能性も十分あるのだ。ダウドナはこの問題に対し、「慎重な前進」という立場を取っている。
 遺伝子コード発見の革命を起点としてダウドナたち生物学者の姿を追った本書で最も訴えたかったのは、基礎科学の重要性だと著者は述べている。自然界の驚異に対する好奇心から生まれた研究がイノベーションを生む。応用志向ではないこと。これは日本の教育界、学術界も耳を傾けるべき戒めではないだろうか。自然がどのように機能するのか理解したい情熱を持った「暗号解読者」ダウドナが、これまでどんな風に生命の暗号、そして人生の暗号を解こうと試みたか、そしてこれから、どのように人類の未来に埋め込まれた暗号に対峙しようとしているのか、本書上下巻でその冒険を確かめてほしい。(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3574 ・ 2023年1月14日(日)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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