韓歴二十歳 最終章(7)
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
<最終章(6)から続く>
<第1章(1)から読む><最終章(1)から読む>
◆
さて、ここからは後日談である。
2001年4月をもって僕は大学に復学。うっかり3年間もまわり道をしたので、大学7年生という耳慣れない立場であったが、久しぶりの大学生活を謳歌した。
単位はそこそこ足りていたので、卒業論文を書く以外はいくらか余裕があった。知り合いの紹介で子ども向け書籍を作る編集プロダクションに入り、そこで新しくアルバイトを始めた。新大久保の仕事はもともと3月末までの約束だったが、うまいこと後任が見つかったため、少し早い段階でお払い箱になった。
かわいがってもらったわりにドライな最後だったが、深夜勤務のために彼女と会う時間が激減しており、その意味ではありがたかった。
「大学に戻るまでは3ヶ月以上あるからね。いままでのぶんゆっくり一緒に遊ぼう」
帰国直前の電話で交わした約束を破ったことは、その後に小さくない傷を残した。
結局、7月の時点で別れることになるのだが、僕の身勝手で留学後まで振り回した形であった。もちろんそれだけが理由ではないし、ここでは語れない事情もあるのだけれど、今後の人生において反省、成長せねばならない部分は多い。20代前半の貴重な時期をともに歩んでくれた彼女には深く感謝をしている。
逆に日本語同好会メンバーとの、必ず韓国に戻るという約束は、考えていたよりもずっと早く10月に実現した。卒業論文に必要な資料が足りておらず、追加の作業に出なければならなかったからだ。
同好会のメンバーには必要最小限の面々にしか話を通さず、勉強後の飲み会をサプライズ的に襲撃してみた。
「あれ、おまえなんでここに?」
「いつ来た? なにがあったんだ?」
「本当に本物か?」
嬉しいことに期待通りの反応だった。久しぶりにソウルで飲む焼酎は身体に染みわたり、気持ちのよい酩酊の夜と、鉛を飲んだような翌朝の苦悩を満喫した。
年明けまで苦しんだが、卒業論文は無事に提出できた。
タイトルは以下の通り。
『朝鮮料理はなぜ赤いか‐朝鮮半島における唐辛子の受要と普及について‐』
あくまでも学部レベルではあるが、成績表を見る限り、自分なりに満足のゆく評価はもらえたように思う。留学に出た表向きの目標は、なんとか果たしたと言える。
2002年3月に大学を卒業。
むしろここからがいちばんの問題となったが、大学7年生ともなると新卒での就職とはいかない。韓国関連の企業に中途で入るか、あるいは韓国に戻って働き先を見つけるか。いろいろ考えはしたが、僕は最終的にいちばんやりたかった物書きの道を選んだ。
といっても駆け出しの立場でそう仕事はない。
当面は編集プロダクションでのアルバイトを続けながら、コリアン・フード・コラムニストとしての道を模索しつつも、実際は留学前と変わらないフリーター生活である。
この留学記を書き始めたのが2002年5月。最終章を書いているいまは7月である。サッカーのワールドカップもすでに全日程を終えた。
自身の留学生活を振り返る作業はたいへん楽しく、いまこの瞬間にでも、あの時期に戻りたいとさえ思う。悩み、苦しみ、もがいた日々もあったが、すべてが濃密な時間であり、数えきれないほどの宝物を得た。この1年3ヶ月は僕にとっての誇りだ。
――僕が韓国でしてきたことは食べることと飲むこと。――
本当にそれだけだったが、不思議と得たものは多い。それを今後にどう生かしていくかはすべて僕次第だが、まずは留学を通じて出会ったすべての人にもう1度感謝をしたい。
そしてここに改めて宣言をする。
僕はこれからも積極的に韓国を訪れ、食べることと飲むことに執念を燃やしていく所存である。そのうえで韓国の食文化が、こんなにも魅力的であると日本に広く伝えたい。自身の留学記という形を取ったこの物語は、その第1歩である。
韓国料理は素晴らしい。
それは食べ物としてだけでなく、それを囲む魅力的な人たちの姿があるからだ。
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