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亡くなることへの予感―介護の日々

縁起でもないことを書くべきではない、と思うところもあるが、ひとりでしまっておくと気が狂いそうになるので、ここで書いておこうと思う。

母と同居を始めて、もうすぐ半年になる。私自身が仕事を辞めて無職になってからは半年経った。新型コロナウイルスの騒動のなかで、気がつかないうちに6月になり、そろそろ蒸し暑い日も増えてきた。今年は本当に初夏を楽しめなかった印象だ。

毎日、一緒に過ごしていると気がつきにくいのだが、母は、確実に衰えているのだと思う。今年の初め頃には、病院帰りの昼食時に「ラーメンを食べたい」と外食をしたり、台所に立って牛肉と牛蒡の煮物をつくったりもした。
でも、いまでは外食したいとも言わないし、好きだった回転寿司のこともすっかり忘れてしまったようだ。コロナの影響で外食を控えてきたせいもあるのだろうけれど。
不調を訴えることも多くなった。頭が痛い、ふらふらする、ちょっと気分が悪いから横になる、などなど。テレビもあまり見なくなってきたし、3年先まで契約している新聞も滅多に目を通さなくなった。
何より、表情に生気がないというか、視線にすっかり力がなくなっていることに驚く。

そういえば、私が母を一人では放っておけないと思ったのは、昨年の夏だった。もっと暑い時期だったと思うが、きちんと食事もとらず、なにをやるでもなく、ほとんどの時間を不調で寝て過ごしていた。
正直のところ、夏を超すのは無理なんじゃないか、ここで死なせてしまったら、私自身、できることをやらなかったということで、一生、悔いが残るのではないか、と思ったものだ。それが仕事を辞めて、母と同居を始める決断につながった。
あの時と同じようにだんだんと暑い季節が近づいている。去年のことを思えば、不調が続くのは目に見えているし、それでもいまふり返れば去年の今頃は、自分でできることもまだまだあって、いまよりはかなり「元気」だったのである。

先日、主治医の先生から万が一のときの備えを聞いた。
そして、すこしずつ衰えていく母の姿。
「死」が遠くにあるものではなく、少しずつ実体のあるものと感じられてきている。目盛りのついた器に少しずつ水を溜めているような感覚だ。自分の胸の奥に、肉親がいなくなることの実感がいつも宿っている。


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