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老いは徐々に進んでいく―介護の日々

まもなく91歳になる母親。世間的には自宅でそれほどの補助もなしに生活しているのだから立派、元気なものと言ってよいだろう。自分で食事をして、トイレにも行き、時間はかかるものの着替えもする。
残念なのは、夜中にトイレに数回起きるらしく、落ちついて眠れないこと。それと、同じくトイレが心配で外出を極端におそれること。外出自粛の昨今なので、出かけないこと自体はかえって良いのかもしれないが、古い友だちと会ったり、ちょっとした小物の買い物も我慢しているようで、それはせっかく長生きしているのにもったいないものだと思う。

訪問看護に週2回来てもらっているTさんによれば、90歳くらいで自宅にいる人はほとんど一日中寝ているケースが多いとのことだ。
「お母さんは、私の知っているなかで元気さでは、1,2を争いますよ」とのこと。
確かにそのとおりで、客観的にはそうなのだろう。それに、Tさんと過ごすときの母は楽しそうである。

でもここ1か月ばかりは、すこしずつ違和感をもつことが増えてきた。
それは、例えば、次のようなことだ。
・食事の量が少なくなってきた。途中でやめてしまうこともある。
・食べ方が、以前と変わってきた。例えば、幾皿か出してもひとつのものばかりを続けて食べるようになった。
・着替えたり、下着の洗濯ものの始末などに、息子である私の目をあまり気にしなくなった。

そのほかにもいくつかあるが、気がついたら、あれ、前はこんなではなかったなあという感覚である。

9年前に亡くなった父は長期に施設に入っていた。
すでに認知症だったので、最初のころから介護の方とコミュニケーションをとったり、行事を楽しむということはなかったが、それでも車椅子で施設内をよく移動していた。でも、数年もたたないうちに自分からは動かず、食事以外の時間の大半はベッドで寝ているようになった。
そのとき感じた老いた人のなんともいえない全体の雰囲気、仕草などが、だんだんと母にも見受けられるような気がする。
なにか生の世界からすこしずつ別の世界に移っていくような雰囲気、それは生から死につながるというよりは、子どもの世界や楽しかった思い出の断片が集められた世界に向かうのに近いように思うのだが、そちらに少しずつ進んでいるように見える。

正直なところ、母に長生きしてもらいたいのかどうか、よくわからない。
いまのまま自宅にいて、そのまま入院もしないで静かに旅立つことができれば、それがいちばん幸せなような気もする。
だいたい寝たきりの状態になったとき、周りの力を借りながらにしても、私が面倒を見られるのか、食事を用意し食べさせたり、薬を飲ませたり、身体を拭いたり、下の世話をしたり、いったいそうしたことができるか、という疑問、惧れもある。そしてそれが母の望むことなのかという疑問。

そんなことを思うなかでも、母は少しずつ衰えていく。
父のときに強烈に感じたのは、人は突然、死ぬのではなくて、徐々に生から死に移っていくということだった。母もその道程を歩んでいるのかもしれない。

追記:
こう書きながら、今この瞬間にも母が旅立つこともあるのだと思う。そう、人生は先読みすることはできない。ここで私が書かなくても『君の膵臓を食べたい』一作だけ見ればわかることである。
そして、時間をかけて徐々に生から死に移っていく人生は、実は贅沢なことなのかもしれないと思う。

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