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青空、緑色の炎、黄金の蜜

 プラスはコートが欲しいと言った割には、いつまで待ってもひとりでチェスを差している。
 だからマイナスは壁にかかっている、De sterrennachtのレプリカを眺めていた。マイナスはこの絵が好きだ。今にも匂い立ちそうな糸杉。誰もいない街。黄色い月の光。

 プラスが悲しみによって大事にしていたものを見失ってからは、鍵盤はずっと沈黙したままだ。鍵盤はオフラインで、どこにも繋がっていない。マイナスは時々その不器用な指で押してみるが、プラスのようには上手に鳴らせない。
 ファ。シ。ド。黒鍵。調子外れな音が、白い部屋の中に響く。プラスはこちらも見ずに、チェス盤とにらめっこしている。
 もう長く沈黙したままだったので調律が狂ったのか。それともやはり、マイナスの手はプラスの手ではないからか。
 好きでもない相手に触れられても、好きな相手に触れられた時と同じ声は出なかろう。
 マイナスはそう考えて、一人ごちる。
 窓の外に鬱蒼とした緑。プラスもマイナスも植物と蟲が好きだから、庭師も入れず生えるままに任せている。
 もし枝と枝がぶつかって窮屈そうな時だけ、必要な分だけ、散髪をする。あとは自然のなすがままだ。
 
 マイナスはプラスの弾く月の光が好きで、彼が大事なものを見失ってからも、よく口笛で吹いた。しかしそうする度に、彼が厭な顔をしたので、彼女はある秋の朝に口笛を封印した。
 それ以来、クロードとは疎遠になったままだ。
 悲しみは最初は痛みがあり、血が吹き出る。そしてその後はぐじゅぐじゅと湿り、膿み、そして時間が経つと乾燥していく。今ではプラスのそれは砂浜に打ち上げられた流木のように、日に焼けて白く乾燥している。
 ゴッホはどんな気持ちで、De sterrennachtを描いていたのだろう。
 あの緑色の炎のような糸杉は、青い夜と黄色い月光の前でうねるあの生命の持つ狂気の色彩は、彼の何を顕しているのだろう?
 彼はサン=レミ療養院で、どんな想いを抱いて、暮らしたのだろう。
 マイナスはゴッホが好きだ。彼女は、プラスにとってのテオになったつもりでいるのだ。
 彼女は待つ。黙って、待つ。
 鍵盤を弾いてみたらとも、何かをしたらとも、いつになったらコートを買いに行くのかとも、何も言わずに。
 マイナスは麻の服が好きだ。さらさらして、気持ちがいいから。それにもし人生史上最悪なことが起きて、どうしようもなく哀しい気持ちになっても、服を脱いで紙で巻いて燃やして吸ってみれば、もしかしたらハイになれるかもしれない。
 そんな話をしたら、リザには大笑いされた。
 「あんたって、本当に夢見がち」
 マイナスはそれには少しむっとした。じゃあ、リザは麻の服を巻いて吸ってみたことがあるの?
 リザは隣に住む一人暮らしの女友達だ。本名はリザではないらしいが、マイナスもプラスも、近所の人達もリザと呼んでいる。彼女の微笑みは、すごく美しいから。
 リザは男友達がすごく多くて、女友達はマイナスだけ。でも恋人も夫もいない。彼女は男と寝るのは好きだけど、信頼には価しないと言って笑う。幼い頃に父親に日常的に暴力をふるわれていたことが、彼女の愛を感じる部位を臆病にしているのだ、とマイナスは思う。
 兎に角彼女は独身で、故に彼女は今も『単なる』リザなのだった。
 
 町にはプラスやリザ以外にも、悲しんでいる人々がいる。
 リザと逆側の三軒隣のミスター・『口調がメガネ』氏は愛猫のアデオダトゥス一世(彼は熱心なクリスチャンだった為に愛猫にこんな名前をつけた)が天に旅立ってからと言うもの、かりかりに痩せてしまった。
 近所の口さがない人々は、猫なんかに教皇様のお名前をつけた罰だとひそひそ話をしたが、マイナスはそうは思わなかった。
 アデオダトゥス一世は、窓際に座っている時も、塀の上を歩いている時も、とても優雅で幸福そうでとてもそんな罰があたるような猫には見えなかったから。
 それに聖人たちは慈悲深いだろうから、人が愛する獣に自分の名前をつけても、静かに微笑まれる筈だと彼女は考えたのだ。
 五丁目のナットは、母が痴呆症にかかり、彼の事も彼の妻のことも孫たちのことも、一切がわからなくなったと泣いていたし、マイナスが働いているスーパーの経営をしているミスター・オオツカはいつも疲れ果てた顔で虚ろに商品を弄んでいる。
 プラスの恋人だったサラは、小さな悲しみを蓄積して、それを逃す為に使用していた薬物の過剰摂取でこの世を去った。
 そしてサラが逃しきれなかった悲しみは、そのままプラスに受け継がれ、鍵盤が沈黙することとなり、マイナスはクロードとお別れをするハメに陥った。
 けれどマイナスは、この状況もそんなに悲観していない。なぜなら彼女にはまだプラスがいるから。プラスは生きて、息をして、チェス盤を睨んでいてくれる。
 ミスター・オオツカの奥さんは、でっぷりと肥っていて、マイナスに遭う度に誰か良い人を紹介してくれようとする。
 例えば、ミスター・オオツカ・ジュニアとか(ジュニアはプラスの同級生で、今では東のスーパーの店長をしているがやっぱりでっぷりと肥っていて、喫煙の所為で歯が黄色い)。
 リザはあんな安い時給であんなにこき使われて、あの日系人たちは守銭奴だとぶつぶつ言っていたが、マイナスはスーパーの仕事もミスター・オオツカの一家も嫌いではない。
 スーパーの仕事は確かに大変だし、時々クレーマーも来店するが、それでもマダム・『公園の入り口』や、ミセス・『オレンジ三個とソイミルク』に商品を手渡す時は、言いようのない幸福感に包まれる。
 また今週が来て、今日が来て、彼女たちが同じものを買いにくる。同じようにレジに通して、同じ金額を貰い、同じおつりを手渡す。
 繰り返す日常は、ほんの微妙にだけマイナーチェンジをしていて(ミセス・『オレンジ三個とソイミルク』のティーシャツが今週は黄色いチャリティー番組のそれだったとか)、マイナスに黄金のメープルシロップのように甘美な満足感を与えるのだった。
 それはアンディーウォーホルのシルクスクリーン作品を眺めている時と、同じような安心感だった。
 何も起きない。劇的な変化はない。奇跡も起きない。
 繰り返す、清潔で安全な日常。

 プラスは本当はコートなんて要らないのだ。十年前のコートの穴には、マイナスが継ぎ接ぎをしたし、彼はそんなことを恥ずかしがる男ではないのだから。
 それでも何かが欲しいのだ。心の穴を埋めてくれる何かが。プラスの心にもマイナスが継ぎを当ててあげられれば良かったのに。マイナスはそう考えると、少しだけ悲しくなる。
 サッドは、一度都会に行って帰って来た。塞ぎの蟲に憑かれていると、街のみんなから嫌われている。
 けれどそれはサッドがみんなを嫌いだからだろう。
 サッドは老人が嫌いだ。同性愛者も嫌いだし、障害を持った人々も、浮浪者も、エリートも、スーパーの店員も、薬物中毒もアルコール中毒も、ヘヴィ―スモーカーも、リザも、ミスター・オオツカも、ナットとその母親のことも、プラスもマイナスも嫌いだ。
 誰も愛さないから、彼は誰からも愛されない。
 都会に行くまでは、フランチェスコという名前だったが、誰も愛さなくなってからは、サッドと呼ばれるようになった。
 誰も愛さない男は、誰からも愛されず、人は愛から遠ざかれば遠ざかるほどに悲しみは増すばかりだからだ。
 サッドはスーパーに来て、周囲の客と一悶着を起こしては、ミスター・オオツカにうんざりした顔で注意されて、そしてアーモンドチョコレートをひとつだけ買って行く。
 「あなたって、これしか食べてないの? 身体に悪くない?」
 マイナスはいつも、サッドにそう話しかける。彼の身体が心配なのだ。
 「黙れ、売女。レジを打つしか脳がない安いお***付きのカラフルパプリカ。余計な心配をしていないで、とっとと釣りを寄越せ」
 サッドはいつも憎々しげに、そう言ってレジスターの横に唾を吐く。ミスター・オオツカが飛んで来て、彼をつまみ出す。
 サッドの悲しみは、街中を悲しくさせる。小さな子供のする咳のように。
 白い紙に落とされた、黒い水滴。滲んで、広がっていく。

 プラスとマイナスの母は、言葉に気をつけなさいとずっと言って来た。
 言葉は現実を生み出すのだから。
 手元にないものを思うよりも、手元にあるものに感謝しなさいとも、よく言われた。
 ここにあるものだけが、あなたたちに作用出来るのだからと。
 それでもプラスは今もいなくなったサラのことを、ずうっと思い出してしまうのだ。だから彼はチェス盤から、目を離さない。
 クイーンやビショップやルーク、ポーン、キングのことを考え続けていれば、現実の恐ろしさから逃げられるのだ。
 それに、チェス盤の上の駒は、殺されても何度でも蘇る。
 何度でもニューゲームをやり直せる。
現実はそうはいかない。
 実際に戦争で足を無くしたロス爺さんは、幻肢痛に悩まされていた。無い筈の爪先が痛むのだ。それは夜毎、ロス爺さんを苦しめた。
 無いものが、私達を苦しめることがあるのだ。現実に作用することがあるのだ。
 無い筈の爪先が痛み、もう居ない筈の恋人の影に苦しむ。
 マイナスはロス爺さんの、見えない爪先をさすってやった。実際には空気を撫でていただけだったが、ロス爺さんはありがとうと言っていた。
 「お前がそうしてくれると、大分良くなるんだ」
 
 青空は愁いを含んで、気持ちがいい。
 「私たちは、生かされてる。そう思う」
 その時、マイナスが草叢に足を伸ばして座り、リザは煙草を吹かして空を見上げていた。
 「生かされてる? 誰に? 何の為に?」
 リザが煙草の煙を、吐き出す。エクトプラズムのような白いオバケが、空にふらふらと昇って途中で風に消された。
 「私たちの食べているものや、家を立てる為に切り崩した植物とか。山に棲んでいた動物たちとか。命。いーっぱいの命」
 青空は愁いを含んで、気持ちがいい。
 「へえ。あたしはそうは思えないな。生かされてるとしてもなんであたしの親父はあんなにあたしを撲ったの? 男たちはあたしと寝ても、誰もあたしを愛さない。お金もないし、希望もない。生かしてなんて、あたし頼んでないのに」
 マイナスは黙って寝転がり、リザの膝の上に自分の頭を載せる。短く切ったマイナスのボブヘアを、リザの煙草の匂いのする指がかき混ぜる。海から水を掬い上げる時のように。
 彼女の手首からは、檜の馨りがする。それは彼女の香水の薫りだが、その馨りにマイナスは徐々に森の中へ誘われていく。
 彼女の細い手首を入り口にした、檜の森。
 青空は愁いを含んで、気持ちがいい。
 「リザはずっと不幸なの?」
 マイナスが森の中からそう訊ねると、彼女は例の微笑みを浮かべて、ずっとってわけじゃないわ、と答えた。
 「あたしが可哀想な子みたいじゃないの。そりゃ良い日だってあるわよ。美味しい葡萄酒をあんたが持って来てくれる日とか、こうして休みの日に空が晴れている時とか。でもそんなのって一瞬で過ぎ去ってしまうし、ちっぽけな幸福だわ」
 青空は愁いを含んで、気持ちがいい。
 「じゃあ、おっきな幸福って何?」
 「それはやっぱり美形の大金持ちと結婚してさ、宝石や高級車や豪邸を買って、遣りたい放題して暮らすのよ」
 「じゃあ、それをリアルに想像してみよ」
 リザとマイナスは、少しの間それが現実になったことを、事細かにリアルに想像してみた。
 「どうだった?」
 「駄目ね。姑が礼儀に五月蝿いの。あと、美形でお金持ちだけど彼ってケチ。それから足が臭いわ」
 そういってリザがけたけたと笑う。大したことないわね。おっきな幸福もさ。
 「私の家には姑ももういないし、美形でお金持ちじゃないけど、足は臭くないわ。うちに嫁に来たら?」
 「良いわね。チェス盤を睨みつけている、鬱病のお兄ちゃん付きだし」
 二人が大笑いしたので、近くでひなたぼっこしていた猫が迷惑そうに彼女たちを睨みつけた。蟲たちは小さな身体を使って餌を探すのに夢中で、彼女たちの騒音に苦情を言う暇はなかった。

 ナットのお母さんが遂に病院に入った報せを聞いた時には、もう春がすぐそこまでやってきていた。
 プラスはコートを買わないままだ。
 マイナスはナットに、お母さんの入った病院ってサン=レミ療養院みたいなところかしら? と訊ねたかったが、喉元で飲み込んだ。
 なんだか、不躾な好奇心に思えたのだ。
 六丁目から駅前に行く道順は、幾つかあるが、マイナスが好きなのは山道を通って小さな山をひとつ超えて行く道順。
 自信を無くしてしまった人の背中に似たなだらかな坂を、彼女は自慢のスニーカーで優しく撫でる。
 大丈夫、大丈夫。そのうちに元気が出るわよ。大丈夫。
 だけどこの山が元気を出して、背筋を伸ばしてしまったらどうしよう? 直滑降の崖は、いくらなんでも昇れない。
 きらきらと輝く川の水面に足を突き刺して、渡り鳥が休憩をしている。永遠の旅人。旅烏。
 その日、サッドは店に入って来た時から殺気立っていた。入り口でまずミセス・『オレンジ三個とソイミルク』を怒鳴りつけて、周囲の客から厭な視線を貰っていた。
 そこに運悪く居合わせたのが、ミスター・『口調がメガネ』氏であり、彼はパートナーこそいなかったが、同性愛者だった。
 それを知っていたサッドは(というよりミスター・『口調がメガネ』氏の愛に関する諸々は街の人々みんなが知っていた)思いつく限りの悪罵を彼に投げつけた。
 ミスター・『口調がメガネ』氏は、サッドの為に祈り始めた。ありとあらゆる聖人たち、そしてキリスト、全知全能の神、それから自らの愛するアデオダトゥス一世に。
 店内はざわざわとざわめき、厭な予感が漂っていた。サッドの怒り方はいつものそれとは違った。いつもならもうとっくに、彼は怒りの対象から離れてチョコレートの棚へとずんずんと歩いている筈なのだ。
 最初に殴りつけたのは、サッドの方だった。サッドは握り拳を作って、アデオダトゥス一世への呪いの言葉を叫びながらミスター・『口調がメガネ』を殴った。
 周囲にいた客がサッドを取り押さえたが、今度は愛猫のことを悪く言われ頭に血の昇った『口調がメガネ』氏がサッドの顔を思い切り殴った。
 サッドとサッドを取り押さえていた客が後ろへ吹っ飛ぶ。サッドの奥歯が折れて、床に血と歯の欠片が散らばり、ミスター・オオツカは新タマネギを握って溜め息をついた。
 ミスター・『口調がメガネ』氏は、愛猫が死んで痩せこけたとは言うものの、以前は強いことで有名なボクサーだった。

 「それからね、サッドも『口調がメガネ』さんも警察に連れていかれたの。奥歯の欠片、私、一個だけ拾っちゃった」
 マイナスは、プラスに話しかける。プラスは何も言わず、聞いているのかいないのか、チェス盤を睨みながら腕組みをしている。
 白い部屋。レプリカのDe sterrennacht。チェス盤。野菜煮込みと黒パン。グランドピアノ。二つのパイプベッド。
 リザは思い切り殴られたサッドに、同情したようだった。彼が殴られた瞬間に、彼のもとへと走り、彼を介抱してあげていた。彼の血を拭う手が、ぶるぶると震えていた。お父さんのことを思い出したのかもしれなかった。
 人間はなんで、みんな悲しいのに、お互いに傷つけあうの?
 みんなが悲しいんだから、みんなで慰めあった方がいいのに。
 マイナスはロス爺さんのことを、思い出す。
 「戦争なんて二度と行きたくない。仲間は死に、敵も死に、ばたばたとみんなが死んでいく。最後は勝ちも負けもよくわからん。死体の山と、足が吹っ飛んだ事実だけが残った」
 ロス爺さんは誰にでも優しかった。酒浸りだったけれど、それでも酒臭い口で、子供たちに声をかけ、必要なときは静かに嗜めた。
 ある筈のない足の痛みと闘い、夜になると亡霊たちがロス爺さんの部屋を訪ねて来た。
 「なぜ、お前だけ生き残った?」
 「痛い苦しい悲しい助けてくれロス」
 「お前に撃ち抜かれて飛び散った脳みそが、まだ見つからないんだ」
 亡霊たちは口々にロス爺さんを罵った。それは彼の爪先の痛みと同じく、彼のすり切れた神経が生み出す幻覚だったのかもしれないが、少なくともロス爺さんにとっては本物だった。
 彼の爪先の痛みと、全く同じく。
 ロス爺さんは最後まで爪先の痛みとアルコール中毒と闘って、数年前に死んだ。死んだロス爺さんの肌は乾いていて、枯れ葉のような感触で、マイナスは「それ」がもうロス爺さんではなく、ロス爺さんの去った後の廃墟であると知った。
 時間の経った悲しみと、遺体はよく似ていた。白く日に焼けた流木。
 最後に彼女はロス爺さんの無くなった爪先を、もう一度だけ撫でて、さようならをした。
 戦場で散った仲間たちとゴッホによろしくね。
 時が過ぎ去っていく。毎日に追われている間に。どこかに時間の泥棒がいるのだろうか? 朝食、仕事、昼食、仕事、夕食、入浴して目を閉じたら、またすぐに朝食。
 役者たちは次々に舞台を去る。それでも役割を与えられているキャラクターたちは、まだ舞台の上で必要な科白を口にする。そうするしかないから。
 そして、時がきたら、さようならとお辞儀をして、舞台を去る。
 それはとてつもなく長く、だがあっという間の上演。
 
 誰も愛さないサッドが、誰にも愛されないリザに愛されたのは、それから数週間のことだった。
 「彼って、可哀想だし、なんだか私と似ているから」
 リザはそう言って、例の微笑み方をした。マイナスは少し心配だったが、二人が付き合ってから一年後に彼らは籍をいれた。子供が出来たのだ。誰も愛さなかったサッドは、奥歯をなくして、代わりにリザと子供を愛せるようになった。
 もう誰も彼をサッドとは呼ばず、フランチェスコという元来の名で呼んだ。そしてリザはフランチェスコと結ばれたことによって『単なる』リザではなく、モナ・リザと呼ばれるようになった。フランチェスコが彼女をそう呼んだからだ。
 フランチェスコは『口調がメガネ』氏とも和解し、フランチェスコとリザの夫婦は『口調がメガネ』氏に新しい猫を見つけてきた。
 彼は野良猫として保護され、殺処分されるすんでのところをモナ・リザの微笑みに救われた。
 彼は小さな小さな痩せっぽっちの美しい猫で、『口調がメガネ』氏よりアナクレトゥスと名付けられた。モナ・リザとフランチェスコが彼を連れて来たのが、四月二十六日だったので、そう名付けられたのだった。
 マイナスはまだプラスと暮らしている。マイナスはプラスと共にあることによってのみ、ゼロになれるからだ。
 プラスの重荷をマイナス出来るのも、マイナスの不足をプラス出来るのも、お互いしかいなかった。
 モナ・リザや、フランチェスコや、ミスター・『口調がメガネ』や、やせっぽっちのアナクレトゥスに新たな家族が出来たその頃も。
 そんなある夜、マイナスが小さな庭に出ると、枝の隙間から月の光が差し込んで来ていた。洗濯物に似た薫りの風に木々がゆらゆらと揺れて、真っ青な夜をより青くしている。かつてのサッドの心よりもブルーな夜。
 濃い青空(昼間よりも夜空の方が、この言葉には相応しいとマイナスは思う)は愁いを含んで、気持ちがいい。
 マイナスが空を見上げていると、部屋の中からピアノの音が聞こえて来た。彼女は驚いて、振り返る。
 Claude Achille Debussy :Suite bergamasque "Clair de lune”.
 彼女が小さく呟いた時、彼女の瞳は懐かしさに涙の粒を零した。
 鬱蒼とした緑の中に立ち尽くして、耳を澄ます。
 真っ青な空を柔らかく撫でる黄色い月の光。ぐねぐねと枝先を伸ばす、大きな糸杉。彼らは言葉を使わずに会話をする。
 誇り高い緑色の炎と、青空から降る黄金色の蜜。
 涙のように、プラスの弾く一音一音が世界に染み込む。
 The more I think about it, the more I realize there is nothing more artistic than to love others.
 ゴッホが囁く。クロードの旋律に合わせて、糸杉が伸びる。
 マイナスはプラスと暮らす世界を愛している。プラスがサラを愛しているように。

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