見出し画像

眼鏡をかけると、小さなものまでよく見える

 1 [炭酸を待たせ過ぎた話]
 歳をとればとるほどに、人は孤独になる。歯磨き粉をすすいだ洗面所で、皺の増えた顔に向かってそう言ってみる。
 だが、どうだろう? 自分は別に若い時から、疎外感を感じて生きてきたような氣もする。
 もっと自分からいきなよと言ってくれた、フランクな笑顔がとても軽薄で楽しげだったあの彼は、今はどうしているだろうか?
 電車や街中でフランクな笑顔で笑う中年男性を、ナスカはあまり見かけたことがない。フランクな男たちは、中年になると全員が車に乗って出掛けるのだろうか? 友人が多くて、明るく、軽薄な男たちよ。一体どこへいってしまったのだ?

 ナスカは中年に差し掛かって来た自分の人生を、カメラワークを駆使して俯瞰してみる。全体を支配する静けさと、緩やかな世間への拒絶。そして小さく細かな、言い換えるならば些細な、日々の気付き。
 ナスカの人生はぼおっとしていると見過ごしてしまう、些細なものたちで構成されている。
 だからナスカは眼鏡をかける。裸眼でいると全てがぼやけて色んなものを見過ごしてしまうのだ。視力が悪いということでもあるのだけれど。

 例えば、隣町から帰ってくる途中にある、とある一軒家の表札の上の梟。
 彼はもちろん、銅板を切り抜かれて作られた偽物の梟なのだけれど、その表情のユニークさといったら本物の梟たちにも引けをとらないほどに表情豊かだ。
 彼の右目の奥には小さな電球が仕掛けられていて、夜になると彼は右目だけをきらきらと光らせる。買い物の帰りに、彼を見ては『今日もきちんと光っている』と確認するのがナスカの日課だ。
 こういったことは、眼鏡がないと見過ごしてしまうのだ。ナスカの愛する細かなものたち。

 「明るい男なんてろくなものじゃない」とナスカの恋人は言う。酷く憎々しげに。昔、明るい男に何か厭な事をされたのかもしれない。
 「だって考えてみて? 軽薄なまま、四十代になった男のこと」
 ナスカは四角い自分の部屋の一辺を見つめて、言われるがままに想像する。自分が立方体の中でこそこそと生活している不思議も、じんわりとその身に感じながら。

 あの頃《イケてる》とか《ヤバい》とかが、明るく軽薄な男たちの口調だった。あれって超イケてるよなぁ、とか。
 そのまま四十代になった彼らを想像してみる。高級時計を身につけ、細身のスーツで言う。昨日の女、超イケてたぜ。
 厭かも。あ、割と厭かも。
 だがナスカは更に考える。彼らも人間なのだから年齢相応に、それなりの成長は遂げている筈だろう。
 《昨日の女性は素敵にイケていたよ》位は、彼らだって言うんじゃないだろうか?

 「価値観の問題よ。価値観の問題」
 恋人はじゃ、じゃ、じゃ、と水音を鳴らして、洗った食器を規則正しく水切り籠にいれていく。
 「成長したって、価値観は変わらないわ」
 彼女はいつも正解を知っている。だがナスカは時々それを疑ってみたくなって、色々自分で試してみることもある。彼女の言っていることが本当かどうかを。そしていつも痛い目に遭って来た。彼女はその度にいつだって、じゃ、じゃ、じゃ、と水音をさせながら言う。
 「ほら、だから言ったじゃない」
 だからきっと今回も、彼女は正しいのだ。

 価値観の問題、か。ナスカは氣の抜けた炭酸水を口に含んで、一氣に飲み下す。ぬるりと喉を通る液体が、どうにも気持ち悪い。しゃきっとしろ、と言いたくもなるが、考え事に夢中で炭酸がコップの中で微睡むほど待たせてしまったのはナスカだから仕方がない。
 四十近くなってもまだ分厚い眼鏡をして、冴えない服で小さな事柄を見つけては愛でている自分は、明るく軽薄な男たちと比べて《ろくなもの》なのだろうか?
 わからない。答えは出ず、また炭酸水はマグカップの中で微睡み、氣を抜いていってしまう。

 2 [時計との和解の話]
 時計が嫌いだった。子供の頃の話だ。
 時間という概念がどうにも理解できず、時間の束縛癖も好きになれなかった。時間はいつだって嫉妬深く、自分のルールを押し付けてくる。それから外れると、長い針や短い針でこちらをちくちくと刺し貫いてくるのだ。
 嘘じゃない。ナスカの左肘にはまだ時計に刺された痕が残っている。
 しかし今は、ナスカは時計ともすっかり和解している。昔の事は水に流したのだ。じゃ、じゃ、じゃ、と。
なので最近は、朝起きてすぐに腕時計のネジを巻いてやることにしている。腕時計の方でもいつも所定の場所に腰掛けて、彼が起きるのを静かにじっと待っている。

 ジュイ、ジュイ、と時計のネジを廻してから、時報サーヴィスに電話をかける。ポッ、ポッ、ポッ、ポーン。ゴゼン、シチジ、ニフン、ヨンジュウビョウヲ、オシラセシマス。
 音声ガイダンスに従って腕時計の針を合わせると、ナスカは自分の手首に彼女を巻き付ける。世間に出回っているのに較べると、少し小振りな体型の彼女は、細いナスカの手首に丁度いい。

 街の時計屋のおじいさんの名前を、ナスカは知らない。皆が《オーサワさん》と呼んでいるから、それが名前だと思っていたのだが、どうやら違うらしいことが最近判明したのだ。
 「南大沢って街があるだろ? 俺は、あの街が好きでねぇ。小さなショッピングモールとか、広い公園とか、閑静な住宅街とか、あの小さな街には俺の好きなものが沢山あるんだ」
 南大沢が好きだから、オーサワさん。本名は? と聞こうとしたら他のお客さんがやってきて、オーサワさんはその人の接客をしに行ってしまった。
 それ以来、ナスカはオーサワさんの本名をなんだか聞きそびれている。

 オーサワさんは腕利きの時計職人で、若い頃にはスイスで修行をしたこともあったらしい。多くの高級時計メーカーにも職人として誘われたが、全てを断って両親がやっていたこの《宝石・時計・眼鏡の時間屋》を継いだのだという。その話の前半の信憑性はあまり高いとは思えないが、強風に煽られる鳩のように胸を反り返らせてそのエピソードを話すオーサワさんが、ナスカはとても好きだ。

 オーサワさんの店に来るお客さんの中で、もう何十年も同じ時計を修理し続けている人がいる。
名前をナカさんという。
 ナカノさんはもう随分と歳をとったおばあさんで、服装などは質素で、高価な宝石などをつけているわけでもないのだが、彼女がつけている腕時計はとても高価なものなのだという。
 確かに素人のナスカが見ただけでも、その時計は見たことのないデザインをしていて、不思議なオーラを纏っていた。

 「私の母の形見なの。だから彼女は私よりもずっとお婆ちゃん」
 素敵な時計ですねとナスカが言うと、ナカノさんは上品に笑って、そう話してくれた。
 「あの時計が現役でいてくれる間は、私も現役でいられるような氣がして」
 まだまだ彼女はバリバリ現役ですよ、と工房から時計を修理中のオーサワさんが大きな声で返事をする。ナスカは自分の腕時計を撫でて、自分も年老いても彼女とそんな関係性でいたいと思う。

 小さな丸い泡の中に、きっちりと組み込まれたゼンマイやネジや針や文字盤。小さなそれらが、きちんと整列している様を想像すると、ナスカは小学校の頃の自分を思い出す。
 体育座りをして、静かに並んでいた自分。膝小僧に出来た瘡蓋や、土の上を歩くありんこ。友達のひそひそ話。過剰に青すぎて作り物のようだった空。
 彼の手首の中には、あの幼い夏の日が緻密に再現されている。

 彼は随分歳をとるまで、時計を持たなかった。若い頃は時計とは和解していなかったので仕方ない部分もあるが、以前より時計との距離が近づいてからも彼は時計に興味を持てないでいた。
 しかしある日、眼鏡を直しにきた《宝石・時計・眼鏡の時間屋》の前で、今彼の手首に巻き付いている彼女に出会ってしまったのだった。
 ナスカは悩んだ。美しいフォルム、小振りで淑やか、クラシカルな佇まい。確かに彼女は素晴らしいけれど、自分は腕時計と上手に暮らしていけるのだろうか? と。過去の手痛い失恋が、彼を臆病にしていた。

 ナスカと彼女をくっつけたのは、彼の恋人だった。
 彼の恋人は、修理した眼鏡を取りに来た時に、彼女の前で腕組みをしてぶつぶつ言っているナスカをどうも見ていたらしい。
 誕生日の日の朝、彼女はダイニングテーブルの上で静かに時を刻んでいた。
 「え、これ。なんで、此処に?」
 驚くナスカを横目に、恋人はじゃ、じゃ、じゃ、と水音をさせながら、洗った食器を規則正しく水切り籠にいれていく。
 「時計は恋人の象徴なの。時計をころころ変える男は浮気者。たったひとつの時計をずっと大切にする男は一途な男。大切にしなさい」
 その日からナスカの朝起きてすぐにすることは、彼女のネジ回しとなったのだった。

 3 [なんで? の話]
 てんとう虫が止まっている。ベランダの窓。外側。
 寒い朝のことで、その日ナスカの恋人はパジャマの上から《もこもこ》を着ていた。《もこもこ》とはボア・ブルゾンのことで、それは去年までは何年も外用のアウターとして使われていたのだけれど、今年になって毛がへたってきたので寒い朝の珈琲を飲む時用のアウターとして再利用されているのだ。
 ナスカは恋人のことを、ネコさんと呼んでいる。恋人の本名は、ホンダミネコというのだが、彼女はミネコさんと呼ばれるのを嫌がる。

 「ミネコの癖に、ボンキュッボンじゃないな、って言われたの。小学校の頃ね。はな垂れた同級生の糞ガキに。それを言うなら、峰不二子だろばか、って思ったのに言い返せなかったほどには落ち込んだわ」
 同級生が糞ガキだった頃は、ネコさんもガキだったのだろうけれど、ナスカは何も言わない。ネコさんが子供嫌いなのも、当時の同級生からからかわれたのが一因なのかもしれないし。
 ネコさんは子供と自分の名前の他にも、自分のスレンダーな身体も嫌いだった。ナスカはネコさんの細い身体がとても好きだったが、それを信じてもらうには長い時間を要した。
 「私は私が嫌いなの」
 「嫌いでもいいけど、僕の好きな人を傷つけないでよ」

 そう、てんとう虫だ。てんとう虫、とネコさんが言った時、ナスカはぼさぼさ髪で、珈琲の為のお湯を湧かしていた。冬のお湯を沸かす作業は格別だ。ちちちち、ぼっ。ぐつぐつと泡立つお湯からあがる湯気に手をあてると、小さなたき火氣分を味わえる。
 え、どこ? ナスカが言うと、ネコさんは眼鏡、とだけ言う。急いで眼鏡をつけて、ネコさんに近寄ってから、あ、と声を出した。

 ベランダの硝子窓の外側に小さなてんとう虫が、ぴたりとくっついている。なんと可愛く、勇敢なロッククライマー。いや、硝子クライマー。まるでスパイダーマンのようなてんとう虫。宿敵に例えるなんて、変な比喩だろうか? まぁてんとう虫に似ている蜘蛛も世界にはいることだし、そこまで変というわけでもないだろう。
 蜘蛛男のようなてんとう虫。てんとう虫のような蜘蛛。

 ネコさんは小さなことを見つける天才だ。彼女は歩いていても、とても小さな虫を見つける。
 いきなり繋いでいた手をギュンと引っ張られて、ナスカがびっくりするとそれは大体ネコさんが何かを見つけた証拠だ。
 「なに? どうしたの?」
 「……虫」
 そう言われても、ナスカにはどこに虫がいるのかわからない。
 「……眼鏡」
 ナスカは慌てて胸ポケットから眼鏡を取り出すことになるが、大抵の場合、虫はナスカが眼鏡をかけるのを待っていてはくれない。クライミング中のてんとう虫以外は。

 ネコさんは本物の猫が好きだが、いつも猫たちからは警戒されている。繋いでいる手をギュンと引っ張られて、「ネコ!」と叫ぶネコさんの見つめている方向を見ると、走り去る尻尾だけが残像のように見えたり、もしくは白いビニール袋がかさかさと風に揺れていたりする。
 「ビニールだよ、ネコさん」
 そんな時、ネコさんはいつもナスカの方を振り向いて、その大きな目で彼をじっと見つめて、こう言う。
 「なんで?」
 「なんで? とは」

 逆にナスカは本物の猫たちからは、どうも何とも思われていないようだ。ナスカがひとりで歩いている時、この街の猫たちはごろごろとそこら中に転がっている。
 ナスカが近寄っても見向きもしないし、写真を撮ってもどこ吹く風だ。
 〈猫たちがまた転がってたよ、ネコさん〉
 ナスカが転がる猫たちの写真をネコさんに送ると、ネコさんからはすぐに返信がくる。
 〈なんで?〉
 〈なんで? とは〉

 ナスカはネコさんに出逢うまで、荒れ果てた生活をしていた。時計とも和解をしていなかったし、アルコールとも上手に付き合えているとは言い難かった。煙草の煙は常に彼の傍にいたが、それとて良き友人とはとてもじゃないが言えなかった。

 彼は孤独で、荒んでいた。時計の針と憎しみ合っていたので、当時の彼の時間は二倍速再生で進んでいた氣がする。
 今も時々、二倍速再生で暮らしている人を見かける。大抵は頭のいい人たちだ。彼ら、もしくは彼女たちは、もの凄いスピードで話すし、声も高い。あれは本来の音声を、時計の針によって早回しされているからなのだとナスカは信じている。ネコさんは鼻で笑うが。

 ナスカは多くの人々と付き合わない。実際に今も付き合いがある人は、そんなには多くはない。
 人々はナスカと付き合いをしたいと思ってくれているし、ナスカも出来るならそうしたいと願ってはいるが、中々うまくいかないのだ。
 0距離か、もしくは遠くにいるか。彼の付き合いに、中間はない。愛情の噴出口の目盛りが壊れていて、最大か最小かにしか合わせられない。

 故に人付き合いは大概が失敗する。大抵の人は最大出力の愛情など、特別な人にしか求めていないのだ。
 男性にも女性にもそうなので、女性からは警戒され、男性からもホモセクシュアルかと訊ねられる。だからナスカとしては、愛の元栓を閉めるより他になくなる。
 ナスカは反論も弁解もしない。ナスカの好きには種類がないから。それに、ホモセクシュアルの何が悪いのだ?

 なので、どうしてもネコさんへの愛は最大出力、大音量、デシベルマックスとなる。ネコさんはぎゃんぎゃんと鳴る彼の愛のスピーカーの前で、目を閉じて静かにそれに甘んじてくれる。
 「下手に避けようとすると、二次被害、三次被害がくるしね」と小声で呟きながら。
 
 出来損ないな自分に、ナスカはうんざりする。
 普通の人たちがすっと素通りする道を、彼はでこぼこと転んだりひっくり返ったりを繰り返しながら通る。そしてその度に大騒ぎをして、人々に心配と迷惑をかけてしまうのだ。
 「欠点のない人なんて、いないんじゃないの」
 そう言ってネコさんはじゃ、じゃ、じゃ、と水音をさせながら、洗った食器を規則正しく水切り籠にいれていく。
 「私だって、猫付き合いはいつも駄目だしね」
 「あそこらへんとか、ネコさんがいない日はいつも四、五匹転がってるよ」
 「なんで?」
 キュ。水を止めたネコさんは、とても怖い顔で振り向いた。なんで? っていわれても。

 4 [環境問題や歴史上の人物に関するまゆつばな話]
 大きなことを動かしたければ、小さなことを見るべきだな。
 オーサワさんは時計見用のルーペをつけて、小さな夏の日を弄くり回しながら、そう言う。
 「こうして小さな小さなネジやゼンマイたちがな、大きな地球の大きな時間をきちんと管理してるんだ。ナスカくんは時々時間が時計を動かしているように言うが、そうじゃぁねぇ。時計っちゅうもんがあるから、時間って概念が存在できるのよ」

 オーサワさんの話はいつだって眉唾もので、《宝石・時計・眼鏡の時間屋》に来るといつもナスカの眉毛はびちょびちょになってしまう。
 だが何の根拠もないその話は、なぜだかすっと心に入ってきて、いつの間にかナスカの生活の端々でそのしたり顔を覗かせるのだった。

 コンビニやスーパーでビニール袋が有料になった。ビニールやプラスティックが海に流れ出して、海洋生物を殺したり、水を汚したり、更には細かくミクロまで刻まれたそれらは魚や色んなものを通して、人々の身体の中にまで這入り込んでいるという。

 へぇ、こんな小さいのが、あんな大きな海をねぇ。ナスカがビニール袋を見ながらそう感心していると、ネコさんは大きな鞄から小さく畳んだエコバッグを取り出した。
 「塵も積もれば、なんとやらなの」
 ナスカはオーサワさんの眉唾話を思い出して、自分の手首に巻き付いた腕時計をさする。針とぜんまいとネジがちくたくと働く小さな振動が、大きな時間を分刻みに刻んでいく。

 そんな話を後日《宝石・時計・眼鏡の時間屋》でしていると、オーサワさんは腕を組んで自分で入れた粗茶(とこれも本人が言っていた)を見つめながら、大きく頷いてみせた。
 「わかる。わかるな。ナスカくんの言うこと。俺も歴史上の人物なんて、信じてないから」
 オーサワさんの頭の回路はどうなっているのだろう、とナスカは訝しむ。小さなビニール袋と大きな環境問題が繫がり難い、と言っているナスカの話と、歴史上の人物。どう関係があるというんだ?
 しかも歴史上の人物を〈信じていない〉だなんて。歴史上の人物を宗教かなにかだと思っているのだろうか?

 どういう意味ですか? と聞くと、オーサワさんは大真面目な顔つきでナスカに近づく。密だ。
 「ナスカくんは、会ったことあるか?」
 「誰とですか?」
 「歴史上の人物に決まってるだろ。他に誰がいるんだ?」
 決まっては居ないと思うが、とりあえずナスカは首を横に振る。自分が生まれるはるか前の偉人たちと会ったことあるかだって? ある筈がない。
ナスカは現代の偉人とも縁がない。現代に偉人がいるとしての話。

 「会ったことがないけど、でも歴史上の人物たちのことは知ってるんだろ?」
 「だって学校で習いましたよ」
 「でもそれは作り話かもしれないじゃないか」
 「いや、きちんと文献が残っていて……」
 「文献〈しか〉残っていないんじゃないか。本の中のキャラクターたちにも文献は残っているんだぜ」

 歴史上の偉人たちが実在し、ナスカやオーサワさんのように生きていたという証。それは一体どこにあるのだろう?
 確かに言われてみると、ナスカははっきりと答えられるほどに確かな証拠を持っているわけではなかった。
 「最近じゃ聖徳太子や坂本龍馬も、いたのかいなかったのかわからないという話じゃないか」
 オーサワさんは腕を組んで、顔を顰めてそう言う。

 「それと僕のビニールの話、どう繫がるんですか?」
 危うくまた煙に巻かれて、わけがわからなくなるところだった。オーサワさんは話の柱をあちらこちらに持ってくるのが上手で、氣がつくとナスカの周りは柱だらけになっている。柱の檻の中で、一体何の話だったかな、とひとり首を傾げることになるのだ。

 「いや、だからさ。人間は見ていないものも、信じてしまうってことさ。実際にビニールが海洋生物を殺すところを見ていなくても、数値として出てますよと誰かが言ったら皆でビニールを無くそうとしたりするんだ」
 オーサワさんは粗茶をずずずとすすり、流石に三回目は薄いなと笑った。

 「でもそれって、良いことじゃないですか?」とナスカ。
 「良い事ばかりとは限らないさ。インターネットで有名人が何百人もの他人に叩かれるのも、同じことだろ。自分に実際に被害が出ているわけじゃないのに、テレビのニュースが騒ぎ立てる単なる説明を現実だと信じている。正にあれも〈歴史上の偉人いるかいないかわからない現象〉だよ」
 オーサワさんはもう謎の現象名を作って、あたかもそれが世界共通の言語であるかのように振る舞っている。

 「じゃあ、オーサワさんはビニール袋は無料の方が良いって思ってるんですか?」
 店の棚に飾られている時計をしげしげと見つめていたネコさんが、オーサワさんへ質問する。ちょっと怒ったような声で。ネコさんは環境問題への関心が強い。
 「いや、ビニール袋なんて無くした方が良いさ。環境に悪いんだろ? でも買い物袋を無くしたところで、ビニールで商品を個包装してるのはみんな無視だよな。日本だと飲食物ってほとんどビニールかプラスティックに包まれてるだろ」
 
 ネコさんは少し驚いた顔をして、ナスカも意外だと思った。オーサワさんのようなお年寄りが、環境問題に前のめりだとは。
 「これもまた〈歴史上の偉人いるかいないかわからない問題〉だよ。ビニール袋は環境に悪いと言われた。で、言われるがままに買い物袋をエコバッグに変えた。だから環境はもう安心です、ってな。そうじゃないだろ?」
 それからもう一回、粗茶、というより色付きお湯をすすって、ごま塩のようなあごひげを撫でた。
 「知らない間に考えるってことを放棄させられてるのが、今の教育のこわいところなのさ」

 5 [何が正しいのかわからない、の話]
 ネコ!
 子供嫌いのネコさんは、普段は子供の声に振り向いたりはしない。それどころか、子供の声がした途端に、それが振り向くべき方向だったとしても、意地でもそちらを振り向かなくなる。
 なので時々、ナスカはぐるりと大回りをして、目的地のスーパーやレストランに行かなければいけなくなるのだ。

 でも、その日は違ったのとネコさんは言う。
 ネコ! って声が聞こえて、子供の声だってわかってたんだけど、「え? ネコ?」って振り向いちゃったの。そしたらどこにもネコなんていなくて、子供たちが走ってく先にはおじいさんがいるのね。
 よく聞くと、子供たち、ネコじい、ネコじいって。おじいさんのあだなだったのよ。ほんと、腹立つったら。

 ナスカはにこにこと笑いながら、怒るネコさんの話を聞いた。
 「それにしても、ネコじいさんか。そんな人、この辺りにいたっけ?」
 そりゃ、ハンダのじいさんだろ。その週の週末に《時間屋》に来た時に何気なく話すと、オーサワさんはそう言った。
 
 「ハンダのじいさん?」
 「ああ、そこのスーパーでよく見かけないか? 白髪を短く刈ってて、右目の下に小さな疵がある背の高いじいさんだよ。すげえ仏頂面の」
 オーサワさんがそう言うと、やっとナスカにもピンときた。ネコさんも、確かにそういう見た目だった、と頷いている。
 「あの人、ハンダさんって言うのか。渋いおじいさんですよね。でもなんか、ネコじいさんって感じではないけど……」
 オーサワさんは肩をすくめて、時計の修理に意識を戻す。ネコさんもナスカも腹が減ったので、食事をしにいくことにした。

 諍う声が聞こえて来たのは、丁度会計を終えたナスカが《水の都・ヴェネツィア》出た時だった。
 《ヴェネツィア》は商店街を曲がったところにあるナスカたちの行きつけの日本蕎麦屋で、蕎麦屋なのに店構えは白塗りの洋館風、赤と白と緑のイタリア国旗まで飾ってあるという変わり種だ。
 居抜き物件を買ってそのまま使っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。《ヴェネツィア》の主人曰く、ヴェネツィアは水の都で蕎麦も水が大切だから、そこが通ずるのだという話だった。ネコさんはちょっとおかしい人だと訝しんだが、結局は蕎麦の美味さに負けて通っている。

 その日も「うちの蕎麦はヴェネツィアからひいた水で打ってるからよォ」という店主の謎の申告を聞きながら、わけがわからないながらも美味い蕎麦をすすって店を出て来た、その時だった。
 「あんた、いい加減にしろ!」という怒鳴り声が聞こえて、更にがやがやと何人かの声が聞こえて来た。
 ナスカとネコさんが声のする方に向かうと、近くの公園に小さな人集りが出来ていて、その真ん中に《ネコじいさん》こと、ハンダさんが黙って立っている。

 ハンダさんは数人の男たちに囲まれて怒鳴られていて、ハンダさん自身は何も言い返したりしていないのだけれど、ナスカにはなぜか周囲の人間がハンダさんに怯えているように見えた。
 「どうしたんですか。落ち着いてくださいよ。一体何ですか?」
 ナスカが人集りの中に這入り込むと、集団のリーダー格の中年男性が口を開いた。
 「あんたはここらに住んでるわけじゃないだろ? なら、黙っておいてくれよ。あんたみたいな若い人の出る幕じゃないし、これは俺らぁの問題だからさ」

 中年男性の抗議に、周囲のひな壇老人やひな壇中年たちが、そうだそうだとガヤを入れる。なぜ人間の声は、大勢になると漫画のオノマトペのようにひとまとめになってしまうのか。ワイワイ、ガヤガヤ。
 「それにこの男はずっと刑務所にいた悪人でね、そういう輩がこの街にいられると色々困るんだよ」
 リーダー格の中年男性の厭な言い方に、流石のナスカもむっとして「そんな言い方って」と言いかけたが、その前にハンダさんがぎろりとリーダー中年を睨み、その迫力に中年もナスカも黙らざるを得なかった。

 「あらあら、大変」
 ふと上品な声が聞こえて皆が振り向くとそこには、お母さんの形見の美しく高価な腕時計を左手に忍ばせたナカノさんがいた。
 「皆さん、少し密だわ。それにその人、私のお知り合いなの。何があったかわからないけれど、勘弁なさってくださらない?」
 ナカノさんがそう言うと、リーダー中年は最初こそぶつぶつ言っていたものの、最後にはきまり悪そうに頭をかいてガヤ老人とガヤ中年を連れて去っていった。

 公園にはハンダさん、ネコさんとナスカ、ナカノさんが残された。不思議な四人。ナスカがナカノさんにお礼を言おうとしたその時、繋いでたネコさんの手がナスカの手をギュンと引っ張る。
 「ネコ!」
 野良猫とその子供たちが数匹、小さな声で鳴きながらナスカたちの近くに近寄ってきていた。
 ネコさんが興奮しながらふうふうと息を押し殺している横を、野良猫たちは素通りして、背の高い仏頂面のハンダさんの足下に擦り寄った。
 「喧嘩の原因って、この子たちのことかしら?」
 ナカノさんがそう言うと、ハンダさんは観念したように何も言わずに手にしていた袋から猫の餌を取り出した。

 ちゃくちゃくちゃく。
 猫たちが焦って餌を食べるのを、大きなハンダさんがしゃがんで見つめている。親用の皿と、子供たち用の皿に、ハンダさんは餌をわけていれた。
 「子猫には子猫用の餌があるからな」
 よく見ると公園の壁には〈猫の餌やり禁止!〉とか、〈糞害に困っています!〉と殴り書きされた看板が、所狭しと張られている。

 「生きてりゃ飯を食って、糞をして、子供を産む。当たり前じゃねぇか。どいつもこいつも、そうやって生きてる。人間様だけ良くて、動物にはその権利がねぇなんて筋が通らねぇよ」
 小さな声でそう言ったハンダさんの長袖シャツの襟元から、カラフルな和彫りの刺青が覗いていた。
 「俺はね、あいつらの言う通り、刑務所に入ってた。嫁も逃げちゃって、子供とも一才の時以来会えてない。でもさ、どっかで幸せに生きててくれ、って思うんだ。俺みたいな奴でもね。俺みたいな奴の子供でも、幸せに生きる権利くらいあってほしい、って思うんだよ」

 真っ赤で大きな夕日が、公園の針葉樹の向こう側に落ちる。刺青の入った猫じいさんと、ナカノさんと、ナスカとネコさんを赤く照らして。
 猫たちは生きる為に、必死に餌を食べる。先に食べ終わった子猫たちは、無邪気にじゃれあって転げ回っている。

 猫の餌やり禁止の看板には、猫に餌をやるな、猫が増えないように去勢しろ、と書かれた下に〈人と動物が共生できるまちづくりの推進にご協力ください〉と書いてある。
 ナスカには何が正しいのか、わからない。とにかく、最低で厭な氣分だった。ハンダさんを囲んでいたガヤ老人やガヤ中年たちのつり上がった目が、とても悲しかった。
 餌を食べるのに夢中な母猫の痩せて尖った背中を、美しい時計をしたナカノさんの左手が静かにそっと撫でる。
 「可愛い猫ちゃんね。沢山食べなさい。母親は子供たちを守らなきゃいけないものね」

 6 [王様と祈りのようなものの話]
 人間って、なんなんでしょうね。
 ナスカがそう言った時、オーサワさんは片耳で競馬中継を聞いていた。オーサワさんは馬券は買わないが、予想をして勝ったの負けたのとやっているのだ。
 「ん? なんだ? 人間? 知らんのか? あのー、ほら、手があって、足があって、要するに……なんちゅうか、俺みたいなやつだ」
 「僕は真面目に話してるんですよ」

 むっとした僕の表情を、孫を見るような目つきでオーサワさんは見て、時計の修理の手を止めた。
 「〈人と煙草の善し悪しは煙となって世に出る〉と昔から言うしなぁ。わからん、というのがもっと正解に近い答えのような氣もするな」
 「死んだ後にしか、その人の評価は出来ないということですか?」とナスカ。
 「なんのなんの。死んで花見が出来るものか、とも言うけどの」
 「それを言うなら〈死んで花実が咲くものか〉でしょう」
 
 そうとも言うな。そうとしか言わないんです。
 漫才のようなやり取りをして、口の右端を引きあげたまま、オーサワさんは時計の修理に戻ってしまう。カチャカチャという、小さな機械たちが整列しなおす際の楽音のような足踏み。
 規則正しく不規則なその跫音の隙間を縫い、オーサワさんは上目遣いにナスカを見て、こう言った。
 「王様のところに行ってみるか」

 王様に会いに行くという割には、多少の閑雲の見守る商店街を通り過ぎたオーサワさんは、どんどんと寂れた裏路地の方へと突き進んで行く。
 「こんなところに王様がいるんですか?」
 ふたりはもう既に駅の中心地から離れて、築八十年は経っていそうな古びた団地の立つ郊外へと来ていた。

 オーサワさんは外で見ると、割にいかつい。短くさっぱりと刈り込まれた白髪頭に帽子は被らず、利休色のニットジャケットのようなものを着込んでずんずんと進む。手にはなぜか日本酒の瓶を持っている。ペンや道具を差し直すのが面倒くさいらしく、時間屋で着ているエプロンはしたままだ。
 ここだ。オーサワさんが立ち止まった先には、トタン屋根の掘建て小屋があった。掘建て小屋と言っても、壁も扉もないし、雨ざらしの納屋といった感じだったが。

 「おうい、王様! いないのかい」
 オーサワさんについて中に進むと、屋根の下には古い椅子が一脚と、何かに齧られたような襤褸の書きもの机。机の上にはペンが何本か散らばっていて、そこらちゅうに皺くちゃになったチラシが落ちていた。
 ナスカはチラシを拾う。単なるスーパーのチラシや、ピンクチラシたちだが、その裏にはびっしりと文字や絵が描かれていた。

 不気味だ。不気味すぎる。
 オーサワさんを置いて、ひとりで帰ろうかと思っていた時、奥から音がして古色蒼然とした枯れ木が歩いて来た。
 木が歩いている。ナスカは叫び声を噛み殺す。黙って後ずさりをすると、足下の砂利が擦れあって音を立て、老木がこちらを見た。
 「よう、王様。久しぶりだな。今日は若いのを連れてきたぜ」
 オーサワさんは木に向かって、日本酒の瓶を持ち上げた。

 「この人がこの街の王様、コンクラベさんだ」
 王様がぺこりと頭を下げると、ふわりとアンモニアの匂いがする。ナスカも頭をさげると、ふと王様の靴が目に入った。銀色のビニールテープでぐるぐる巻きの王様の靴。
 コンクラベさんはもう二十年ほど、此処で浮浪者をやっている《浮浪者の王様》ということらしかった。
 そしてこの納屋は王様、コンクラベさんの仕事場で、オーサワさん曰く《野ざらしデスク》という場所らしい。王様に用件のある人は皆、此処に来るという。つまりはコンクラベさんの事務所兼作業部屋だ。

 「王様は偉い人なんだぜ。元々はな、あの世界のアカサワ、いや、ミドリサワだったかな? と一緒に映画を撮ってたのよ」となぜか関係のないオーサワさんが自慢げに語る。
 「それを言うなら、世界のシロサワでしょう? 王様、本当なんですか?」とナスカ。
 「信じてねえのかよ」とオーサワさんが唇を尖らせる。
 「もう僕の眉毛は本来の含有水分量の基準値を、あっという間に越しているんです」
 王様がくすくすと笑う。笑うというよりは、枯れ木が冬晴れの日の朔風に揺れているといった風情だったが、多分笑ったのだとおもう。ナスカは少し安心した。王様と通じ合えそうな光の気配を感じたのだ。
 
 「ええ。ですが、もう何十年も前のお話ですがね。監督と一緒に脚本なんかを書かせてもらいましたよ」
 王様は欠けた茶碗に注がれた日本酒を、仙人が露を飲むように軽やかに飲む。
 「もしかして、これは」
 チラシのひとつを持ち上げると、王様の眸が少し虚ろになったような氣がした。
 「もう仕事ではないんですけどね。書かないと氣が済まないんですよ」

 王様はこの納屋に来るまでは、きちんと仕事もして、家も家族もあったらしい。だが、息子や娘が結婚をして家を出て行き、最愛の奥方に先立たれてからは何もする氣が無くなってしまったのだという。
 「家に帰ってもひとりでしょう? じゃあ、何の為にこんな広い家に住んでるんだ、何の為に稼ぐんだ、と」
 そうして家や家財道具のほとんどを売り、この納屋に移り住んで暮らしているという。
 「食費しかかかりませんからね。妻との老後の為に貯めていた貯金や、家を売ったお金はきっと私が死ぬまでは持ってくれると思います」

 王様は目が悪いらしく、眼鏡をしていたが眼鏡のつるは壊れて、それもビニールテープで補強されている。
 「もう映画にはならないのに、それでも書くんですか?」
 ナスカはチラシたちを眺めながら聞く。それは狂気にもよく似ているし、哀愁にもよく似ていた。痛哭するように揺れている文字たちの奥、その悲しさと相反するように物語ははつらつと躍るように展開している。

 「人間、生き方なんぞ簡単に変えられるものじゃないです。人間の行動に理屈なんぞないのだ、と私は思います。仕事でも愛でも憎しみでも、我々はただ衝動に従って行っているだけだ」
 王様は一枚のチラシを取り上げて、まるでそれを初めて見たかのようにしげしげと眺める。葉を落とした小枝のような節くれ立った親指で、愛おしげに物語の頬骨を撫でる。ざりりという、紙が擦れる音。

 「昔のツテを頼って、書いた作品を買い取ってもらえばいいんじゃ……」
 そうナスカが言うと、オーサワさんがにやりと笑う。
 「昔の、どころか、今でも映画界の人たちはこの《野ざらしデスク》に来んのさ。王様は巨匠だからな。つい一ヶ月前に、封切りされたあの映画だって、王様のホンだぜ」
 ナスカが映画のタイトルを聞くと、それは最近ひんぱんにテレビやインターネットで華やかに宣伝されている、巨額の制作費をかけて作られた人気作品だった。
 ナスカは驚く。浮浪者然としているから、勝手に引退したのだと思っていたが、この人はまだまだ現役なのだ。つまり《野ざらしデスク》は比喩でも皮肉でもなく、本当に野ざらしのデスクなのだった。

 仕事をしているのに、浮浪者。それはナスカにとって初めて出逢うタイプの人間だった。
 「今でもお仕事をなさっているなら、きちんと事務所を構えたりなさったらいかがですか?」
 ナスカがそう言うと、王様は自嘲気味に笑った。
 「これは私にとって紛れもなく仕事ですが、皆さんの言う仕事とは少し違うものです。私は依頼されて何かを書きません。ただ、書くのです」

 「お金の為には働かない、ということですか?」
 底冷えする郊外の古い団地群の胃袋の中心、野ざらしデスクに入っては出て行く朔風の意地悪に耐えながらナスカは訊ねる。そういうことではないのだ、とわかりながらも、王様の口から出る説明を耳にしたいが為に。
 「そんな格好いいものではないですよ」
 案の定、王様は苦笑いをして小枝のような五本の指を、古木の大きな節穴に似た目鼻口の前で振る。

 「最初はただ書き散らかしていただけなんです。でも次第にその書き散らかしたことばたちが、夜になると私の夢に這入り込んできましてね。ここは外でしょう? ことばたちも霜枯れ時には手足が凍え、夏中にはうだってしまうのでしょうねぇ。しきりに夢の中に潜りこんで来ては、続きをさぁ書け、やれ書けと急かすんですよ」
 朽ち葉色の笑い声。オーサワさんもしきりに頷いて、王様の話を聞いている。本当にわかっているのだろうか?

  言葉に急かされて書いているうちに、昔なかよくしていたプロデューサーや、出世した後輩たちが訪ねて来て、この芥屑のようなチラシの裏の原稿たちを掻き集めて持っていくようになりました。
 王様、というより仙人のような風情のコンクラベさんは、そっと自分の作品たちを眺める。その視線は夏の夜に真っ暗な河原で見た翠煙とよく似ていて、今たしかに見ていたと思ったのに次の瞬間にはもうふわりと消えてしまう類いの果敢なく優しい視線だった。

 ナスカは王様にネコじいさんと猫たちの話をした。王様は皺だらけの瞼を閉じて、じっと黙して聞いていたが話が終わっても目を開けはしなかった。
 寝ているのだろうか、とナスカが声をかけようとした瞬間に、王様は近くに積んであった数枚のチラシを手にとった。
 「ナスカくん。これを読んでみてくれませんか」

 不思議な物語だった。それは背が低く痩せた老女が、静かに様々な料理を作って行くだけのお話。
 ある日は新玉葱のお味噌汁や、蓮根餅、豆腐と蒟蒻のハヤシライス。またある日は貝割れ大根の梅昆布和えや、椎茸と筍の酸辣湯、田楽味噌付けおでん。
 彼女は使い込まれているけれど清潔な台所で、古い俎と包丁に機嫌良く拍子を取らせて、様々な料理を作っていく。窓の外を流れる小さな川の水音や、ひとりで見上げる星影を食後のデザートにして。

 「これはね、多くのプロデューサーやディレクターたちが持って行かなかった、映画にもお金にもならない物語です。つまり世間的には、何の価値もない単なる落書き」
 寂寥たる風情の《野ざらしデスク》の納屋の中、朽ちかけた机に《価値のない落書き》を置いた王様の手つきは、それを芥屑だとはとてもじゃないが思っていないように見えた。それどころか、それはとても価値のある宝物だと感じているようにすら。

 「でも、凄く素敵な物語でした。僕は好きです」
 ありがとう、と王様はチラシ原稿を撫でる。壁に見せかけた秘密の扉を開くように、机とチラシにぺったりとその枯れた手を合わせたままで。
 「この物語に出てくる料理は、全て妻の得意料理だったものなんです。あの時死んだのが妻ではなく、私だったら、妻はどう暮らしているだろうかと考えたのが始まりで、この物語を書き始めました」

 王様は何度も何度も、この原稿に筆を加えているという。誰も持って行かない、映画にもお金にもならない無価値と言い切った物語に。
 「歯ブラシってペンを持つように持つでしょ? あんな風にペンを持ってね、お話を磨くように加筆していくんですよ。僕の思考の滓を全て削ぎ落として、物語の中の妻が自力で動き出してくれるまで書く。それこそ、歯垢を落とすようにね。僕が空想した妻、じゃ意味がない。物語の中の妻が僕の思惑を飛び越えて、息をしはじめてくれないと」

 この話が猫じいさんと、何の関係があるのだろう? ナスカは毫末の疑問をポケットの中でころころともてあそびながら、王様が閑寂とした冬の昼にぽとぽととことばを落としていくのを見つめている。
 だから、と王様は言った。接続詞がかすがいとなって、猫じいさんと歯磨きのような落書きを繋ぐ。かしゃん。
 だから、その人もそうなんじゃないだろうか。

 「そう、とは?」
 ナスカではなくオーサワさんが訊ねる。ずっと聞いていたのだろう、オーサワさんの目は少し潤んでいる。
 王様は会ってからはじめて、にっこりと笑った。王様の口には、歯が数本しかなかった。
 「祈りのようなもの、というか。私の歯磨きのような加筆も、その人の猫の餌やりも。誰かが決める正しいとか正しくないとか、意味があるとか無意味とか、そういう枠の中にあるものではないんですよ、きっと。七夕の短冊のようなものなのではないですかね」

 少なくとも、私にとってはそうです。
 王様はそう言って、今度は寂しそうに、しかし朗笑した。厚労省の掲げる《国民生活の保障・向上》や《経済の発展》とは遠く離れた、野ざらしのデスクの上で冬至の短くなった日照時間に歯磨きをするように無駄なことばを書き続ける人。
 妻に悪い虫がつかないように。
 「私は虫歯の治療が嫌いでね。おかげでもう元気な歯は数本になってしまった」

 コンクラベさんは、名前の通りに歯ごたえのある人で、浮浪者の王様ではなく、物語の王様だった。
 オーサワさんとナスカが帰る時、王様は王様らしく、見えなくなるまで頭を下げていた。
 「人の上に立つ人ってのは、ああして誰よりも頭が低い人だぜ」
 オーサワさんはまた自分のことのように自慢げに語る。ナスカは頷いて、足下の砂利を蹴飛ばした。
 祈りのようなもの、と小さく心の中で呟きながら。

 7 [不自由な安心の話]
 早く、早く、というネコさんの声が聞こえる。ナスカは急いでいるが、どうしてもネクタイがこんがらがる。長い方と短い方を交差、通して、回して、通して、引っ張る。あがってこない。
 単なる結ばれた紐に成り下がったネクタイは、ワイシャツの中腹でぶらぶらとぶらさがっている。クライミングに失敗して墜落したてんとう虫のように。いや、スパイダーマンだったか?

 何してるの? とネコさんが顔を出す。アップにした髪の毛と紅をひいたさくらんぼのような唇が、遅刻している春の華やかさを前借りしている。
 ネクタイが、てんとう虫、あう、いや、蜘蛛……、とナスカがもごもご言っていると、ネコさんはすすすと近寄ってきて、しゅるしゅると蜘蛛の巣をほどき、しゃしゃしゃと結び直して、きゅっと彼の首を締めた。
 「はい、素敵」
 春の化身があまりに近すぎる所為で、甘い花の薫りがする。でも蜘蛛は花には惑わされない。花に群がるのは蝶や蜂だ。

 時計を腕に巻き付けて、硬い革靴を履く。スーツは多少窮屈だが、不自由な分だけ少し安心する氣がする。布団に潜った時とか、狭い隅っこに作った薄暗い基地の中から外を見ている時のように。
 外はまだ少し肌寒く、群青色の空を背景に寝ぼけ眼の若緑と冬の名残の代赭色が、春の寝坊を黙許していた。飛行機雲が一筋、空を仕切って右と左を区別する。
 ネコさんのヒールの音がかつかつと鳴って、靴擦れした時用に持って来た絆創膏をナスカはポケットの中でもう一度確認した。

 小さな教会には数人の人々と神父が待っていた。小さな声でネコさんが謝りながら席につく。
 ドアが開いて、新郎が入ってくる。緊張したオーサワさんは、いつものような仏頂面ではなく、かといって笑顔でもなかった。嬉しそうな、照れくさそうな、でも口をへの字に曲げた、時計でいうと四時四十分くらいの顔。
 そしてオルガンが鳴って、次は新婦が入って来た。新婦はもうおばあさんではあったけれど、とても美しくて、流石に彼女の左手の腕時計もこの日ばかりは本人の美しさの前にくすんで見えるようだった。
 「綺麗ね、ナカノさん」ネコさんが耳元で囁く。ナスカはネコさんのウェディングドレス姿を想像して、少し鼻の下を伸ばしながら頷いた。本当に綺麗だ。

 オーサワさんとナカノさんの結婚の話を聞いた時、ナスカとネコさんは《宝石・時計・眼鏡の時間屋》で、いつも通りお茶菓子と粗茶をもさもさと食していた。
 ナスカの眼鏡の蝶番が壊れて、右のつるが外れてしまったのだ。
 「おう、そうだ。俺、結婚するからなぁ」
 突然のオーサワさんの野太い告白に、ナスカはもちろんのこと、あの冷静沈着なネコさんまで粗茶を吹きかけていた。
 
 誰と、とか、なんで、とか質問責めする僕らにオーサワさんが迷惑そうな顔を向ける。しかし自分から手向けた話題だ。この答弁からは逃れられない。逃れる権利などない。
 瞬時に国会か芸能人の記者会見場かのように変わった時間屋で、僕らが喧々囂々とオーサワさんから真実を引き出そうとしていると、店の奥から上品な笑い声が聞こえてきた。
 「ごめんなさいね、このひとっていつも言葉少なだから」
 ナカノさんがそう言いながら出て来た時、ナスカはもちろんのこと、あの冷静沈着なネコさんまでが、えええええええええー! と大きな叫び声をあげたのだった。

 「あの時は本当にびっくりしたけどね」
 結婚披露宴は《水の都・ヴェネツィア》で行われることとなっていた。参加者もそんなに多くはないし、歳いってからの結婚なので、氣心の知れた人達とリラックス出来る場所でやりたいとのオーサワさんの発案だ。
 参列者も本当によく見る面々だ。ネコじいさんも来ていたし、商店街の人々もちらほらいた。

 その中にひときわ目立つ、スーツの似合う立派そうな老紳士がいて、ナスカはその人が気になって仕方なかった。
 「何じろじろ見てるの? 失礼よ」
 ネコさんからそう制止されるも、ああ、とか、うう、とか呻きながら、ナスカはその老人から目を離せない。と、老紳士が席を立って、ナスカたちのもとへと歩いて来た。
 「ほら、怒られる。あんまりじろじろ見てたから」とネコさんが溜め息をつくのと、老紳士がナスカの前に立って口を開けて笑うのは同じタイミングだった。
 「王様!」
 ナスカは老人の歯のない笑顔を見て、思い出した。《野ざらしデスク》にいた時のようにぼさぼさ髪でも、汚い襤褸服でも、ビニールテープ靴でもないからわからなかったのだ。
 
 「お久しぶりです、ナスカくん」
 ナスカは立ち上がって、王様と握手する。王様からはアンモニアの匂いもしないし、本当に立派な老紳士といった感じだった。
 「王様、凄い、スーツがとてもお似合いです! ネコさん、この人はね、凄い人なんだ。物語の王様なんだよ」
 単なる貸衣装ですよ、と王様が笑い、ネコさんは何が何やらわからないながらも王様に頭を下げ、王様も丁寧にお辞儀をし返した。

 ヴェネツィアの主人が踊るようにして料理を運んでくる。今日は蕎麦とイタリア料理の半分半分だ。
 「手前の商売を卑下するわけじゃないんだが、蕎麦ってのぁ色味に欠けるだろう? こんなめでたい祝いの席に蕎麦だけじゃ、ちょっと寂しいじゃないか」
 そう言いながらヴェネツィアの主人は、ピザやパスタ、ブルスケッタ、オッソブーコなどをテーブルに次々並べて行く。
 確かに色とりどりの料理たちは、蕎麦の灰色をカラフルに彩り、心を弾ませてくれた。

 日本酒やワイン、焼酎にウイスキーが用意され、それぞれのグラスを満たす。招待客たちの大きな乾杯の声にあわせて、もう一度オルガンが鳴り、新郎新婦が登場する。口笛や拍手、投げられた花弁などが宙を舞い、オーサワ夫妻は幸せそうに微笑んでいた。
 「おう、飲んでるか」
 一通り、挨拶を終えたオーサワさんは、自分のグラスを持ちながらナスカのところへやってきた。
 ナスカの隣にはネコさん、ネコさんの逆隣に王様、向かいにネコじいさんが座っている。

 「いただいてるよ。しかし、なんで急に結婚なんて」
 「悪いのかよ。俺的には急でもなんでもないんだがな。ずっと店にきてたろ?」
 オーサワさんは口の右端を持ち上げて、心得顔で笑う。
 「あれは時計の修理に、じゃないか。いつ結婚を決めたのさ」
 「この前、お前と王様のところに行った時さ」
 ナスカが王様の方を見ると、王様も目を丸くして首を横に振っている。私は何も知らない、と言いたげに。

 「祈りみたいなもの、の話をしたろ。あれでな。好きな女や愛する娘に思いを伝えたくても、伝えられない人もいる。俺はまだ相手が元気で身近にいるんだから、伝えてみようじゃねえかと思ったんだ」
 オーサワさんは新しく奥さんになった、美しい時計をした美しい女性の方をちらりと見た。
 「もし振られたら、その時は祈るみたいに黙って色んな時計を修理し続けてやろうと思ってたがな」
 ナスカがくすくすと笑い、ネコさんとネコじいさんの、きょとんとした顔。王様は口元に微笑みを浮かべたまま、静かに蕎麦をたぐっていた。

 みんなが満腹になり、祝いの言葉も出尽くして、もうそろそろ新郎新婦をふたりきりにしてやろうという雰囲気になり、披露宴はお開きとなった。
 ナスカはネコさんと歩いて帰る。少し酔った頭が、街の夕焼けをぼやけさせて、より美しく見せている。
 「素敵な式だったね」
 「うん、素敵な式だったね」
 ナスカの頭の中には、オーサワさんの言葉がずっとループしていた。
 『好きな女や愛する娘に思いを伝えたくても、伝えられない人もいる。俺はまだ相手が元気で身近にいるんだから、伝えてみようじゃねえかと思ったんだ』

 ネコさん、好きだよ。
 ナスカがそう言うと、ネコさんはうん、と頷いて繋いでいる手をきゅっと優しく握った。
 歳をとればとるほどに、人は孤独になる。若い頃みたいに多くの人々や音に囲まれた暮らしではないけれど、ナスカにはまだ沢山の友人がいる。
 オーサワさんの修理してくれた眼鏡は、本当によく見える。だからナスカは今日も凄く小さなものまで、見落とさずに生きて行く事が出来るのだ。

 家の近くまできて、ネコさんが繋いでいた手を、ギュンと引いた。
 どうせまたビニールだろうとナスカがネコさんの視線の先を追うと、そこには背中を丸めたスーツ姿のネコじいさんがいた。
 「あ、あれは猫だね」
 ネコさんは勝ち誇ったようににんまりと笑って、ハンダさんことネコじいさんの方へ近づいて行く。
 「ネコのおじいさぁん!」
 「ネコさん。静かにしないと、猫たちが逃げちゃうよ」

 ネコさんとナスカがハンダさんの背中越しに向こう側を覗くと、ハンダさんの前で小さな白いビニール袋が揺れていた。
 「おう。猫かと思ってしゃがんだんだが、ビニールだったんだよ」
 ネコじいさんのきまり悪そうな苦笑と、それをあざけるようなビニールの揺れるカサカサという音。
 「なんで!」
 ネコさんがナスカに八つ当たりのパンチをして、ナスカは笑う。夏の嵐が陽気に過ぎ去った後の街のような、さっぱりとした心持ちで、不自由な安心に身を包んだまま。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?