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『コット、はじまりの夏』~ 穏やかな生活と回復の物語 ~

この世には、泉の溢れる如く豊かな人と、砂漠の如く枯渇するのみの人とある。
砂漠の如き人と生活する者は不運である。
泉の如き人と暮らす者は幸いである。

『小畑博遺稿集』

ボクの高校時代の恩師の言葉です。この映画に何度か登場する泉(井戸)を見て思い出しました。

原題は “ The Quiet Girl ”。砂漠の如き実親夫婦との荒んだ生活により自尊心を奪われ続けてきた内向的な少女が、夏の間、泉の如き親戚夫婦との穏やかな生活を送ることにより、少しずつ自尊心を回復していく物語。

コルム・バレード監督初の長編映画。舞台は1981年のアイルランドで、劇中の言葉もほとんどアイルランド語です。

主人公のコットは、家にも学校にも居場所がなく、自分の思っていること、自分の感情をうまく表に出すことができません。

職業柄、想起してしまうのは「アタッチメント障害」。ネグレクトや虐待など、養育者との愛着形成がうまくいかなかったことにより、警戒心が強い、人の言葉に深く傷つく、自傷行為をする、体調不良を起こしやすい、ビクビクしている、感情の起伏が少ないなどの特性がみられる心理的な障害です。

対人関係上も変わり者と見られてしまい、他の生徒からのいじめや教師からの叱責を受けやすく(=「易トラウマ性」)、日常生活そのものが過大なストレスになってしまっている・・・。

最初のかくれんぼや学校生活のシーンでも、それを想起させる描写が出てきます。

そんなコットが、遠い親戚のキンセラ夫婦に預けられる。

最初はいまひとつ噛み合わないものの、やがてスキンシップや野菜の下ごしらえ、水汲み、牛舎の手入れ、通夜への参列などを通して、コットの心のこわばりが溶け、自発的に話し、質問や感想を述べるようになっていく・・・。

「アタッチメント障害」関係の用語でいうと、「安全基地」「安心基地」の形成です。

しかも、夏の生活に何か特別なしかけがあるわけではなく、「穏やかな生活」があるだけ。親戚夫婦も人並みの不幸、触れられたくない影を持っていました。

実親夫婦が「言葉による指示」を多用するのに対し、親戚夫婦は「行動や背中」によってコットの成長を後押ししているところも印象的です。

人は誰かに教えられることによってではなく、自分で体験することによってはじめて、気づき、成長するんだという思いが、窓の外を見るおじさんの背中から伝わってくるような気がします。

最後のシーン。以前のコットであれば決してできなかった自己表現が、存分に描かれていました。あれは、一人の少女の内面の大きな変化だとは思うけど、やっぱり「成長の物語」というよりは、「回復の物語」なんだとボクは思いました。

大人はすぐに子どもに自信を身につけさせようとするが、そうではない。そもそも大人がこれまで子どもの自信を奪ってきたのだと自覚するところからスタートし、これ以上自信を奪わないこと、奪ってきた自信をまずは返すことがなにより大切なのだと思います。

例えば、実親夫婦はコットの短所や苦手を罵倒し、克服させようとする。いっぽう、親戚夫婦は寝小便もスルーするほどコットの苦手は意に介さず、得意の伸長に注力する。走ることが得意なコットの、ポストまでの往復を走る早さを伸ばすことによって、まさにこれまで奪われてきたであろう自信を返してあげている。

コットのくしゃみについて「いったい何があったの?」という問いについて、実親夫婦は娘に起きたらしいよくない出来事を頭に浮かべる。いっぽう、コットが頭に浮かべるのは、親戚夫婦から受けたさまざまな愛情(クッキー、風呂、あたらしい服、慈しみ深い背中・・・)です。

最後のコットによる「ダディ」というせりふは、見る者にさまざまな思考と想像をもたらしてくれる、すばらしいラスト。

音楽はほとんどなく、鳥の鳴き声、食器や靴、ドア、時計の振り子の音、水音、海鳴り、林のざわめきに癒やされる、静かで美しい映画でした。

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