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墓石に何と刻まれたいか?

よく死んだときに周りの人にどう思われたいか?
みたいなところから人生の方向性を模索するアプローチを耳にする。

それと似ているが、
「墓石に何と刻まれたいか?」
のほうがより、普遍的に自分の理想を考えられる気がする。

みなさんは、死んだときに社会や世界にどう認識されたいか?

私は「明るくやさしい人だった」などというナイーブなことは全く目標にしたくない。

これを友人と話したら、「多くの人に悲しんでもらえるような人として死にたい」というようなことを言っていたが、それはあさましく、さもしい。これは結果論でそれを目指してはならないと思う。だって、それは原理的に理解できない他者の感受性をめがけることだから。

自分が生きていて誰かが死ぬときに、どういう風に思えば、心が揺さぶられるだろうか?

あの人はすごかった、立派だった、と、どういうときに思うだろうか。

何人かの顔が思い浮かぶが、
その場合、「徹底して◯◯の課題に取り組んで成果を残した」という人に心を動かせる。

どんな課題でもいいわけではない。
その課題に共感できるればできるほど心は動く。

だから、結局はそれを受け止める人次第、というつまらない結論になるが、
自分は自分の感受性でしか生きられないのだから、似たような感受性の人の心を動かせればそれでいい。

自分の場合は、
空談、頽落状態を軽蔑し存在の謎に真っ向から取り組んだ人間、
としたい。



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