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『言語の本質』を読んだ感想(9点)(今井 むつみ, 秋田 喜美 著)

そのど直球のタイトルに惹かれ、下記の本を拝読した。サピアウォーフの仮説の関連で、今井氏の著書は何度か読んでいて面白かったので、即買いしてしまった。

今井 むつみ (著), 秋田 喜美 (著)
『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』 (中公新書 2756)

読了後の9つの感想を備忘のため書いておきたい。

ちなみ、本書は言語に関わる人は必見の本質論である。(語学にも示唆がある)

1.出発点の問い


本書の出発点の問いにまず惹かれた。

言語はどのように発生し、どのように進化したのだろうか?発生当初からこのように抽象的で複雑で巨大なシステムだったのだろうか?それはちょっと考えにくい。すると、発生したばかりの言語はどのようなもので、どのように現在の言語の形に進化していったのだろうか。

これ、言語に興味を持つ人はだれでも考えたことがあるかもしれない。

一番最初に言語が発生した現場はどういう感じだったのか?

<私>や<あなた>を表す語が1語、1語生まれていったのか?あるいは10語くらいが同時的に増えていくのか?

そもそも初期の10語〜1000語くらいは何だったのか?

どれくらいの時間スパンで初期の語彙セットが誕生したのか?

おそらく、定住社会となり集団で共有する概念の必要性が増えたあたりから、一気に増えたのではないか?

本書では、最初に言語の発生現場への言及があり、一気に興味を掻き立てられた。

2.ソシュールの恣意性への挑戦

この部分が実は私にとって一番おもしろかったところかもしれない。

というのも、私は元々ソシュール研究者の丸山圭三郎の本で哲学に興味を持ち、その関係でソシュールについての本もけっこう読んでいた。

そこで、どうしても差異の体系の考え方に疑問があった。

シニフィアン(記号)側の恣意性は納得できる。<犬>をドッグ(英語)とか、ゴウ(中国語)とか、イヌ(日本語)とか、どのように呼んでもいい。

ソシュールで私がわからなかったのは、シニフィエ(意味)側も、恣意的でどうにもなる、というようなことを示唆していたことだ。こちら側もどうとても切り取れるというようなことが明言はされていないが暗示されていた。

犬と猫との境目も社会の必要性に応じてグラデーションでどこかで分節してもよいというのはわかる。

しかし、犬の見た目とか、鳴き声とか、動きとかいうのは、差異だけではなく、何かしらの「本質」や「実体」がある。

そこについて、ソシュールはほとんど語っていない。

本書では、オノマトペを軸にソシュールの恣意性に疑問を投げかけている。

オノマトペは、ソシュールやホケットという近代言語学で神のような存在と目される大御所の主張した言語の恣意性という大前提に反するため、言語学の中では、言語において取るに足りない周辺的存在として扱われてきたのである。本書はまさに、この大原則を覆す挑戦だと言ってもよい。

3.恣意的なオノマトペ

本書では、「オノマトペ」が鍵になる。

オノマトペが注目されている大きな理由は、「アイコン性iconicity」にある。アイコン性とは、簡単に言えば「表すものと表されるものの間に類似性のある記号」のこと。

LINEスタンプや絵文字は、それらを構成する点や線の組み合わせが対象物に似ているので、アイコン性を持つが、「走る」という記号と、走る動作の間には類似性や関連性がない(と思われる)。

これが、シニフィエとシニフィアンの関係が完全に恣意的でないことの主張の起点となる。

そして、大変興味深いのは、オノマトペではなく「大きい」「小さい」などの一般語も、実はその発音のときの感覚的なイメージと類似性がある。つまり、アイコン性があり、恣意的でないのだ。

一箇所抜粋しよう👇

まず、「あ」が大きいイメージと結びつき、「い」が小さいイメージと結びつくのはなぜか?一つの理由は、これらの母音を発音(調音)する際の口腔の大きさである。「あーーいーーあーーいーー」と発音してみてほしい。「あ」よりも「い」を発音するときのほうが口の中の空間が小さいことがわかるだろう。

「お」も口の中に大きな空間がある。だから、「おおきい」は「お」から、「ちいさい」は「い」から成っているというような事実を色々な言語で観察することができる。

次のようなrの音が、舌先を下ろすというアイコン性を持っているとは思いもしなかったが、言われてみればその通り。


日本語のオノマトペは、「コロコロ」「クルクル」「ポロポロ」「ヒラヒラ」「チュルチュル」というように、二つめの子音がrであるものが非常に多い。これらのオノマトペは、回転、落下、吸引などスムーズな動きを表すことが多い。日本語のrは、叩き音といって上顎に瞬間的に当てた舌先を前方に下ろす動きを伴う。この発音的特徴が動きの意味にアイコン的に結びついているのだろう。

ここまで、単に「へーそうなんだ」的に楽しめる内容である。

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また、
人間はオノマトペに対して、眼の前のリアルな「環境音」に対する反応と同じような反応をするらしい。

すなわち、オノマトペは外界の感覚情報を音でアイコン的に表現するが、そのとき、脳はその音を、環境音と言語音として二重処理するのである。この二重性は、脳がオノマトペを言語記号として認識すると同時に、ジェスチャーのような、言語記号ではないアイコン的要素としても認識していることを示唆している。オノマトペは環境音というアナログな非言語の音の処理とデジタルな言語の音処理をつなぐことばであるとも言える。その意味で、オノマトペは環境音と言語の両方の側面を持つことばであると言えよう。

つまり、ただの記号ではなく、リアルに接地した何かとして認識されるのである。

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これらの何が凄いのか?

それは、つまり、言語の発生現場に近づける可能性がある。

言語発達はまず身体的な感覚を通じて体得した概念(=語彙)、つまり現実に接地している語彙、これらの語彙を土台にして、その上に差異の体系としてより抽象的で複雑な言語を築いていくとうのは、私も想定していた。

もともと対象を想起させる音を出す営みの中で、記号と意味を結びつけて新しい語が生まれたというような仮説。

しかし、本書では仮説にとどまらず、その実証の道として、アイコン性という現実と接地したオノマトペを分析し、一定の事例でその説を裏付けている。

4.アブダクション推論が言語を誕生させた?


議論はさらに進展し、言語の起源とも思われる1つの能力の考察に移る。

それは、アブダクション(仮説形成)推論という人間特有の学ぶ力。

A→Bであるからといって、B→Aとは限らない。でも、人間はそういう間違っているかもしれな可能性を推論する。他の動物はチンパンジーさえ、A→Bは学べても、B→Aを考えない。

この間違ってもいいから、果敢にどんどん推論していく原点はアブダクション推論の力なのか?

これは、何百年も前に、カントが思考的に洞察した人間の飽くなき推論による真理の探究心に相当するものかもしれない。

この1点が、人間を動物と隔てる能力だとすれば、これはまさに謎の黒石板“モノリス”(2001年宇宙の旅)なんではないかと思わせる。

5.言語の本質の解明は何に役立つか

本書で提示させているような言語発達の仮説は社会にどう役立つか?

もちろん、それを知るだけでも好奇心を満たした面白い読み物であるが、やはり何か社会に形あるものを残したい。

私が思いつくのは、こうした仮説や実証成果は、より高度なAIやロボットを設計する上でのヒントになるということ。

どういうことか?

以前、下記の記事でも紹介したが、ニューヨーク大学教授およびFacebook副社長のヤン・ルカン氏は、脳の構造にヒントを得て、ニューラルネットワークを完成させた。

こういう1つの能力が、経験によって自ら学習する能力を備えた自己組織化システムを構築することで、どうやってこんな複雑なものが作れるのか?と思えるものを作り出すのである。

私は、素人で門外漢ながら、ディープラーニングの自己符号化器を想起した。

ディープラーニングで、ニューラルネットワークをつくるには、正解を与えて学習させる学習フェーズが必要。その場合、たとえば、手書きの「3」などの画像を見せれば、正解データとして記号としての「3」を与える。ところが、自己符号化器では「出力」と「入力」を同じにする。そうすることで、特徴量というシンボル、普遍性、ゲシュタルトを取り出す。

A→B、B→Aを推論するというシンプルな傾向が、複雑な世界観を築き上げるのかもしれない。

6.語学への示唆(はじめにコア語彙・表現を確立する)

このような言語発達の仮説が真実味を帯びてくれば、それは、第二言語習得の分野にも応用ができるだろう。(今井氏の別の著書にあるようなので、後日読んでみたいが)

ただ、1つ言いたいのは、本書の仮説で、私の直感が合っていたと思われること。

本書では、言語発達はまず身体的な感覚を通じて体得した語彙(現実に接地している語彙)を土台にして、その上に差異の体系としてより抽象的で複雑な言語を築いていく、ことをオノマトペの分析で裏付けている。

私も、語学をする上では、リアリティを感じる自分の経験に根付いた数千語をマスターすれば、後は、実践を繰り返すだけでスムーズに身につくという筋道で考えていた。これは本書の説と整合している。

7.和辻哲郎『風土』

本書の冒頭の問い、言語はどのうように発生したのか?について考えると、それは、そのときの人間関係や物理的な環境という実体に関係すると言えるだろう。

そこで思い出すのが和辻哲郎の『風土』である。

『風土』は、人間存在の構造契機としての風土性を明らかにしている。アジアからヨーロッパに至る地域を、南アジアを中心とするモンスーン地帯、西アジアの砂漠地帯、ヨーロッパの牧場地帯の三つに分ける。

モンスーン地帯には受容的忍従的生き方と汎神論的世界観が、砂漠地帯には戦闘的で団結と服従を重んずる生き方が、牧場地帯には自然のなかに法則をみいだす合理的生き方が生まれたとしている。

つまり、所与としての物理的な環境が、人間の生き方や性格、気質、行動に影響していることを説いている。

日本は海に囲まれていて外的から攻められにくいだけでなく、国内でも山が多いので、集団同士の殺し合いがほとんどないというのは、村社会で長期的な環境の中で人の目(世間)を気にするような特徴を築いたかもしれない。

言語も、こういう環境のもとで、人間の個体が集団の中で生きていく中のあらゆる必要性から生じたのだろう。

8.実証には限度がある

ただ、本書のような仮説や上記の和辻の仮説は、これ以上なかなか信憑性を高めるのが難しい。

得られる情報が少ないし、世界は1回切りなので、複雑性を実験できないから。

こうした仮説を証明したいのであれば、そのアイデアでAIなりロボットを作って、実際に人間のような言語能力を実現するかを試してみるのが一番。そういう凄いAIができれば、その仮説は正しかったと主張できるだろう。

また、仮に生物的な自己保存のベクトルを持ち、認識装置を備えたロボットを作ったとして、人間レベルの弱いボディにする必要はないだろう。視力は数キロ先からミクロン単位まで見れたり、空を飛べたりできるようにすれば、そのロボットが持ちうる性格や世界観、獲得する言語も人間と全く異なってくるはず。

9.物自体と本質論

最後に、本書を受けて、私はどうこれを発展しうるだろうか?

最近のポストモダン思想は、絶対的なゆるぎない軸を否定したがる。

ソシュールの恣意性もそれだ。

でも、やはり、物自体と言われるような確固たる実体的なものを措定しないと議論は前に進まない。

そこで、重要なのが現象学的アプローチ。

現象学では、物自体のような、超越的で神秘なものを置かない。

絶対的な存在や対象をおかずに、そういう存在や対象が、自分の意識内でどのような根拠をもって成立したかを問う、という方向性に論点を変えた。

自分の意識を徹底追求し最終根拠を明確にし、普遍的な認識のための本質の存在を認める。

こうすることで、普遍的な世界や社会の考察の道が拓ける。

私は、本書で示されているような言語発達の道筋の中で、どのように「幸福」「善」などの人生にとって重要な概念が築き上げられたのか、そこを考察し、いつか仮説を提示し、生き方への1つの示唆を与えたいと考えている。


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