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われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか #AI #人工知能 #哲学

われわれは「意識」を閉じていく方向に向かっているのではないか?という仮説について考えてみたい。われわれは反省的な意識なしに行動をすることがある。それは無意識であり文字とおり意識に上ることはない。われわれは常にそのような状態になることを望んでいるのではないか?

なぜなら、人類が有史以来求めてきた「自由」の本質を探究してみると、無意識状態を求めているように見えるからだ。以下、それについて考えてみる。

竹田 青嗣『エロスの世界像』という本で「心」と「身体」という二項に分節される根拠を問い、心身問題に一つの道筋を提示している。以下、該当箇所。

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エロスの世界像 (講談社学術文庫)講談社1997-03

もしも一切が「全能」であるような存在者がいればその存在は、「身体」を意識する必要がない。「意志」したこと、あるいは「欲求」したことがただちに実現するならば、彼にとって「身体」は存在しない。「身体」がその存在から分離され分節される理由がない。

獲物を狙って全力で走るとき、死に物狂いで闘っているとき動物は自分と「身体」の分裂を意識しない。だが、傷ついた動物は、はじめて「身体」の「できない」を意識する。同様に、「逆上がり」のできない子、遅くしか走れない者、障害のある人間等々は、強く自分の「身体」を意識することになる。

主体の「心」と「身体」が分離される根本の契機は、主体の「〜したい」と「〜できる、できない」という関係の相関の中にある。「存在可能」と「従う」ともいえる。だから「身体」の「〜できる」という契機が「心」と「身体」という二項に分節される“根拠”であって、その逆ではないのである。

「心」と「身体」はあらかじめ別の原理や体系として存在しているのではなく、欲望「〜したい」が可能と不可能を見出すときに、はじめて「分裂」として意識される。その意味で、およそ「身体」とは欲望存在としての生きものにとっての「存在可能の条件」だと定義することができる。(205)

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これを敷衍すると、「〜したい」という主体の意図に対して、身体が「できない」、或いはついていけないときに「主体の意図」の見直しや我慢のために「意識」が生まれる、と言える。

書いてある通り、意図したことが全て瞬時に実現すればするほど「意識」される程度は少なくより「無意識(夢を見ず寝ているような意識がない状態)」に近づいていくだろう。車で運転に集中しているときなどやランナーズ・ハイのようなものだろうか。

さて、これを少し考えてみると、「無意識」状態に近い感覚をわれわれは、「自由」として理想の状態としているのではないか。

同じような議論が下條信輔『「意識」とは何だろうか 』の「自由な選択について」の考察がでも述べられているので簡単にまとめる。

下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 』講談社1999

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どんなときに私たちは自由と感じるか。逆にどんなときに私たちは「自分の行為を自由な選択でない」と感じるのか。

①行動が他人または外部の状況によって強制的にストップされたとき。

②自分の行動を評価するとき。自分の行動を外的要因に帰属させることができるとき。ボールが飛んでくればとっさに顔を背向ける。飢えなどの身体の要因も心からみれば外的。結局、自分の行動が自由な行為でないと感じるのは外部の原因が直接的で明らかな場合。裏返すと、自由意志とは、外部要因が見当たらないときの、内的過程への原因帰属の様式そのもの。無意識の過程だから行動にいたる因果関係に気づかない。外側に要因が見当たらないから自分の好みや選択に原因を帰する。この「自分の好みや選択が原因」というのが自由意志の定義。

③他者の視点から見るとき
自由意志による行為の選択を「感じる」のは一人称の私だけ。行為が機械論的決定だけに基づくようにみえるのは客観的な見方、つまり他人の視点による見方で科学的分析をしたときなので自由意志が蒸発するのはあたりまえ。

これら3つをとおして、いえること。

自由な意志の印象がもっとも妨げられるのは行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できるかたちで見つかったとき。この3つのケースがそのまま意識が生じる3通りの状況ともほぼ一致している。

裏を返せば「自由な行為」はもっとも意識にのぼりにくいときに実現する。

没頭し、われを忘れているときに。このことは直感に反するかも。普通は自由意志が人を人たらしめる高次の心的機能、意識のもっとも意識らしい部分とされ、忘我(即自)の状態は動物的とみなされるから。

いずれにせよ、自分の選択した行動を自由意志によるものと認知するためには無意識的な過程が必要。反面、そもそも無意識的な過程だけなら自由意志は存在しない。存在したとしても機械論的決定論との対立など生じない。また、自由意志を感じるためにはプランと実際の行動が一致することが必要だが、この行動のプランというのはたいていの場合明確に意識されている。

逆説的だが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分において、心は、無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと際限なく漏れだす。

「自由ではないと感じること」から考えて「自由を感じること」(自由意志)を浮き彫りにしている。結論として「自由」はわれわれが「無意識」に近づくほど感度が高まるようだ。

ということはやはり、「自由」を理想にするわれわれは「無意識」状態になることを欲しているといえるのではないか。

人工知能など先端技術により、世界は確実に「安心・安全・便利・快適」さらに「不老不労」へ向かっている。その進歩が遅くても、それが目指されていることは間違いない。

仮に、寝たきりでもずっと栄養補給され、ずっと死なないのであればわれわれはどんな意思決定もする必要はなくなる。そのときに、外に遊びにいくようなこともないだろう。要するに、「意識」は閉じていくのだ。全知全能となれば赤ん坊と同じく、「意識」は必要ないのだ。

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