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個人が主役を本当に理解しよう。孫正義に畏まる必要はない

個の時代と言われ久しくなるが、実際、言葉を使うようになってから、人間は個だ。

近代化は、自由がキーワード。自分の生きたいように生きていい時代だ。ヨーロッパ的な世界観だと、王権が一般市民に広がっていくのが歴史だ。

今、2020年。ここまでくると、「みんなが主役」というような感覚はかなり強くなっていると思う。別に金持ちになる必要もない。社会で成功する必要もない、自分の感性で生きていけばいい、そういう主張が否定されることはまずないだろう。もちろん、実際に行動ベースで承認はされにくいのは事実だが。

私は「個人が主役」という考え方を深く理解している人は何事をやってもうまくいくと思う。今日は、「個人が主役」の本質を考えたい。

孫正義みたいに圧倒的な成果を出している人をみると、自分は何をやっているんだと思ってしまう人もいるかもしれない。(自分はほとんど思ったことないけど、そういう論調の人ってよくいる印象)

彼らが凄いのは前提だが、別にあなたより凄いわけではない。後述する通り、それは任意のあるゲームの領域では凄い、というだけの話。

生まれたときの肉体的、社会的環境は所与のものだ。ここが「みんなが主役」の起点となる。ここについては神秘的であり、人類は全く解明できていないし、これからも解明されないだろう。なぜ私は、隣のAさんではなくっ私なのか、という哲学的問い。

私は自由意志を否定しないが次のことは事実だ。

凄いやつは、その行動のその種となる刺激を幼少期などに受けているものだ。いい学校にも行かせてもらい、幼い頃からすごい人にインスパイアされていたら、そりゃ凄くなる。彼ら僻むな。

でも、一見そういう良い環境でなくても活躍している人がいる。

そういう人は、環境を乗り越えて、つまり自然法則を打ち破って成功したのだろうか?

それも、実は自然法則で説明も可能だ。ずっとダメな環境で大失敗ばかりして、その経験が糧となり行動し成功した、というストーリー。

そうなると、大失敗しないその手前で小さな失敗ばかりの人はずっと活躍できないままになるのだろうか。

でも活躍しなくても、別に個人がよければそれでいい。だったらそれが最適なのだ。

社会的成功したくて、行動する人はやはり社会的成功に価値を感じているからそうするのであり、そうしなかった人は結局、それに価値をそこまで感じていないから行動しないのだ。いくら後で後悔しようとも、行動しなかったということはそのときはそれが最適だったということだから。

「個人が主役」というのはこういう背景を理解しないといけない。別に誰もが社会的に成功したいと思っていないし、思っていてもリスクとるならやりたくないという人は大半だ。誰もが表現者になれたり、起業できたりする環境は一部の人を後押しするだろうが、そもそも「主役」になりたいという考えを持っている人が稀だ。

孫正義が凄いというのは、この世界の中心的なゲームである金と権力のゲームで結果を出している点で凄いという、限定が必要だ。だから、より包括的な世界を生きる個人は、別にそのゲームに価値をおかないなら孫正義にかしこまる必要はない。もちろん、金の権力ゲームの外には年功序列ゲームもあるから年上の一人の人間としては畏まったほうがいい。でも、さらにいえば、さらに外で生きてもいいわけだ。

これを忘れないように気をつけないとだめだ。つまりこれがわかって行動できる人は、相手の視点に立てる、ということだ。

だから、冒頭に「個人が主役」という考え方を深く理解している人は何事をやってもうまくいくと書いた。


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