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私の評価軸〜自由の相互承認を実質化した社会への貢献度〜

何事も、評価する際には、評価の基準がある。つまり、観点だ。

GAFAMが凄いのは、時価総額というマネー経済での価値だ。

もちろん、われわれが無意識的に利用している様々なサービスがGAFAMのものだが、われわれに感動をもたらすのは、人間関係であったり、近所のレストランでの体験だったり、マネー価値では低評価なものばかりだろう。

私の評価軸は、自由の相互承認が実現された社会に近づくか、という観点で考えている。

これは哲学者の竹田青嗣さんや苫野一徳さんが提唱している考え方であり、私自身も完全に支持している。以下の記事にそのエッセンスがまとまっているので、是非読んでみてほしい。

以下、この考え方に基づいて、私の評価軸を、(比較的)わかりやすい形で整理したい。

各個人にとって最も重要な領域

そもそも、人間にとって、一番大事なのは個々人の実存だ。

実存とは、要するに主観的な体験そのもの。感情をベースにした、「いま、ここ」のことだと考えてもらえばよい。

「私は、愛している家族が一番大事」という人も、それはその人の主観なので、実存という範疇に収まる。

簡単に言えば、おれの主観がよい状態なら、よい、ということ。

これは独我論的な危険性があるようにみえるが、自分の主観の状態に他者が影響することを十分に前提している。

実存レベルで最高価値は「自由」

では、この世に生を授かったわれわれは、実存レベルでどのような生を全うできたらよいだろうか?

これは、一言でいうと「自由」であり、その内実は次のようになる。

「我欲する」と「我なしうる」の一致、あるいは一致の可能性の感度

つまり、平たく言えば、やりたいことがあり、それができるという自信がある状態といえる。

これは「自由」の本質観取として哲学的に導かれた結論だ。

どのような社会がよい社会か

では、こういう実存状態をあらゆる人々が実現するには、どのような環境が必要か?

そこで、社会のあり方を考える必要が出てくる。

考え方としては、経済指標ではなく、「幸福」を数値化して、そのために必要な条件を洗い出し、そういうった社会を作ろう!というのと同じだ。

しかし、「幸福」ではなく、上述のような「自由」を中心に置くことがより、根源的なのだ。その哲学的議論は措く。

では、どのような社会が必要か?

それは、お互いがお互いに対等に「自由」を実現したいと願う存在であることを認め合い、そのことを根本ルールとした社会を作ること。すなわち、「自由の相互承認」に基づく社会である。

「自由の相互承認」に基づく社会の実現のために必要なこと

それは、社会の構成員である個々人がその実現をしなくてはならない。

結局は、教育になる。

これまた、苫野一徳さんが、その具体的な教育制度のグランドデザインを描いている。

ポイントは二つあります。一つは、学びのあり方を、今のような画一的・一斉型のものから、学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の融合型へと転換していくこと。もう一つは、閉鎖的になりがちな学校を様々な仕方で開き、子どもたちが多種多様な人たちと交われる空間をつくること、です。

のようなことだ。

今までも文科省などからも似たような構想は出ていた。

しかし、この自由の相互承認ほど、徹底した哲学的な理念は持ち合わせていなかった。

グローバルに活躍する人材の育成とか、みんなが幸福になれる社会、などは、どうしても満場一致で賛成できない原理的な理由がある。

なぜなら、経済的な価値はいうまでもなく、幸福自体も、意味にばらつきの幅が大きすぎるからだ。

個々人が定義する幸福、さらには幸福を追求しない生き方まで、全てを含む多様性が必要であり、それが「自由」の本質である。

私の評価軸

世の中では、様々なニュースが毎日流れている。

ベンチャー企業で新しいプロダクトを世の中に出す人、人権の活動家、環境問題へ取り組む人、政治で社会をよくしようとする人、

一見すると、どれもよいことのように思えるかもしれないが、その動機を問うことは重要だ。

ただただ、お金儲けや、時価総額の高い企業を作ろうとしたり、勝手に定めた幸福を押し付けてはならない。

自由の相互承認が実質化された社会だけが、正解ではないと思うが、これ以上に考え抜かれた理想社会はない。しかも、具体的な道筋も考えることができる。







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