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【評価軸の多様性】センタ一試験は意外に悪くないが、他の基準も乱立すべき
私は以前から、企業の入社試験、ひいては大学の入学試験のあり方に関心をよせていた。
なぜなら、グローバル資本主義社会において金(会社での稼ぎ)が重要な価値であり、会社に入るにはその前段階の大学時代をどう過ごしたかが問われ、その大学はというと、入学試験でどこに行けるか決まるからだ。
この入試制度について、You Tubeやでイェール大学の成田悠輔さんが重要な指摘をしていた。
以下紹介する。
そもそも、乙武さんが、大学入試など入試制度全般について問題提起した。
成田さんいわく、社会を運営する上で何らかの入試制度はなくすことはできないと述べた上で、入試のあり方について語っている。
(社会を運営するには、官僚組織が必要になり、そのためには誰が「有能」で上の立場になるかということを、みんが合意する形で決める必要があるから何らかの明確な指標で測定し、ランク付けするようなことが必要という意味だろう)
そして、成田さんの意見はユニークだ。日本のセンター試験のような「客観的なペーパーテスト」のほうが、アメリカ等で盛んな「総合評価であるAO入試」よりも良い、という。
なぜか?
一般的に、センター試験では、測れる能力に限度があり、現代のように情報化社会においては、プロジェクトをリーダーシップをとって作ったり推進する力が求められ、ペーパーテストではこれらを測定できない。
一方で、AOはどうか。ペーパーテストに加え、学校の成績や課外活動などこれまでの取り組みを総合的に判断するAO試験であれば、こうした社会をよくする力を持つとされる能力を測れる(と想定されている)。さらにはそういう能力を持った人間が「自由」になれる、というようなリベラルアーツ的な発想がある。
一見よさそうではないか?
むしろ、日本はこういう観点で遅れているという批判が長らく続いていた。
しかし、このようなAO入試の基準を設けてしまうと、結局それは、「対策」が”人生の多方面”に及び、結果的に最も同質的な人間を生みやすい状況を生み出してしまう、という。
これは斬新な指摘だ。
AO入試が普及したら、受験生はそれに対策する。ペーパーテストはもちろん高得点、それだけでなく、学校の成績も優秀、部活もやってる、ボランティア、高校時点でNPOや企業立ち上げ、など様々な分野で華々しい経歴が作られるという地獄のような結末になる。
このような基準の下では、八方美人になり全方面で「できる」人間ができあがる。プレゼンではハキハキしゃべり、誰とでもすぐ打ち解けるナイスガイ。さらに、スポーツは5種類やっていて、インドでインターンまでしている、みたいな地獄絵図。
では、
改めて、センター試験を見るとどうだろう。
成田さんいわく、偏った基準でいいから生まれ育ち関係なく、本当に1つの「客観的な基準」だけで優劣をつけるような試験がよい、という。
なぜか?
こうすることで、その基準以外のところで”多様性が担保される”、からだ。
東大の試験であれば、どんなに臭くても、人格破綻者でも、ペーパーテストで高得点を取れば合格できるのだ。
そうすると、その基準以外のところは様々な経験を(それが良いものでも悪いものでも)持つ多様な人々が合格になる。
(一般的に、センター試験のような科挙試験は、どんな出身の人でも一発逆転できることが利点と言われる。このような多様性の議論で出てくるのは、私としてはとても新鮮だった。まあ一発逆転できることイコール多様性の確保になるのは少し考えればわかることだけど。。)
では、センター試験は万能か?
そうでもない。
センター試験が良いのは、人間性の一部分にしか介入しないことだ。
しかし、一部分しか見ないのに、それが日本全体の善の指標になってはならない。
そこで、成田さんは、このような基準が乱立している状態が望ましい、という。つまり、評価軸の多様性だ。どれかが極端に強いという状態は望ましくない。
センター試験は入試の点だが、足の速さ、動画のPV数、などなどいろいろな大会があっていい。それぞれの分野で、一領域においての客観的な基準が並列しているのがいい。
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以上が、成田さんの議論。
では、乱立した状態だとどうなるだろうか?
今の日本の問題は、高校卒業後の人間の価値を測る指標として、「大学入試」という基準が大きすぎる(もちろん他にも色々あるが)ということだ。
だからこの試験に負けることがイコール人生の敗者のような錯覚に陥って、東大の入試殺傷事件のようなことが起こるのだ。実際はそんなペーパーテストで測れる人間力なんてほんの一部だけなのに。。
こうなってくると、各大学であったり、企業が独自の価値基準を示すということが必要になってくる。
先のアメリカのAO入試を突破したような人たちの中での多様性というレベルではなく、もっとその中の一部の領域における価値基準だけで勝負できる道筋があること。こういう社会が望ましい。
簡単に言ってしまえば、次のようにまとめることができる。
社会には無数のゲームがあるが、グローバル資本主義における資産と権力という二大ゲームが、無数のゲームの序列で強くなりすぎているのだ。これら二大ゲームを弱め、その他の無数のゲームが強くなるような社会にすることが多様性を実現するということだろう。
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