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日本語の押韻論:なぜ日本語の脚韻は発達しなかったか、完全韻への追加考察

1 なぜ日本語の脚韻は発達しなかったか

 これまでわたしは、英語のPerfect rhymeの定義を援用しつつ、日本語の完全韻を定義することを試みてきました。*1

 しかし押韻の「響き」を考察している際に、同じ子音を含まない押韻ペアが、なぜか響きにくいという傾向に気がつきました(近類子音を含む押韻ペアよりも、同じ子音を含む押韻ペアのほうが、効果的に響きます)。

 当たり前といえば当たり前な事実ですが、上記の気づきはわたしにある直感を与えました。

 英語のPerfect rhymeは尾子音(coda)の一致を求めていますが、上記のわたしの完全韻の定義は、尾子音あるいは頭子音(onset)の一致を求めていません。もしかしたら、これは重大な考慮不足かもしれない、と思いました。

 つまり、「完全韻には同じ子音が必要なのではないか」ということです。

 漢詩や西洋詩の押韻は、基本的には1音節によるもので、あっても2音節(Feminine Rhyme *2)です。それ故に、英語のPerfect rhymeの定義は、基本的に1音節内における状態の定義ですが、codaの一致を求めています。

 しかし、日本語の音節構造は、英語や中国語に比較するとやや単純です。「日本語の頭子音は多子音にならない」ですし「日本語の尾子音は多子音にならないどころか、そもそも撥音(N)しかつかない」です。

 となると、英語のPerfect rhymeの定義に倣うのであれば、「日本語の1音節の脚韻において、完全韻は末尾にNを含む場合しかありえない」ということになります。

 「缶/酸」とか「韻/新」とかのようなペアでないと、完全韻にならないのでは、という気づきです。

 末尾にNがある脚韻しか認めないというのはおかしな話ですが、しかし末尾にNがない1音節の脚韻では、いわゆる「不完全韻」の「assonance rhyme」というカテゴリーに分類されてしまい、押韻として必要十分な「響き」を生むことができなかったのではないか、とわたしは推測します。

 この事実は、なぜ日本の詩歌文学では脚韻が発展しなかったのか、掛詞のような頭韻だけが発達したのか、その原因と理由を突きつけているようにも感じます。


2 なぜ現代になって発達したか

 上記の通り、必要十分な「響き」を作ることが物理的に難しかった日本語の押韻ですが、現代では日本でも押韻は非常に発達しています。

 それはHIPHOPの功績が非常に大きいですが、その発展に大きく寄与したのは、現代の押韻が「多音節傾向」になったからだともいえます。multisyllabic rhymes(多音節韻)の登場によって、日本語の押韻は急速に発展した可能性があります。

 歴史的な経緯を追いますが、US HIPHOPにおいて、Big Daddy KaneやKool G Rapがmultisyllabic rhymesを開発し、Rakimがそのスタイルをさらに発展させたと言われます。このあたりの経緯は詳しくないですが、1980年代後半ごろには、multisyllabic rhymesは成立していたと推測できます。

 そして、日本語による多音節韻を開発したのはK DUB SHINEです。1993~1995年頃のことです。LAMP EYE『証言』(1995)では、多音節韻とそれ以前のスタイルが混在していることから、このあたりは過渡期であったと推測できます。

 1998年頃には、KREVAがBY PHAR THE DOPESTの楽曲中で「フラストレーション/二つの迷路」のような、高度な多音節韻を使っており、フリースタイルバトルでも多音節韻を駆使していることから、このあたりにはかなりの技術が開発されていたことが伺えます。

 多音節韻によって、日本語の脚韻でも必要十分な「響き」を作ることができるようになり、大きく発達したのではないでしょうか。


3 同じ子音が含まれる場合の効果

 現代の日本語の押韻は3音節以上、時には8音節以上に至ることもあります。それ故に、多音節韻に対応した定義が必要なのではないか、と考えたことがあります。*3

 『HOW TO RAP』の日本語版(2011)に、assonance rhymeが最もHIPHOPのリリックで使われている(p104)と記述されているように、現代のrhymeでは、Perfect rhymeはそこまで重視されていないようにも思えます。

 多音節韻がノーマルになっている現代の押韻環境のなかでは、子音を揃えることはかつてより重要ではないとはいえますが、しかし揃えていたほうがよりベストであることには変わりがないでしょう。

 例えば、5音節に渡る日本語の押韻ペアで、音節もイントネーションも揃えているのに、なぜか「響き」が弱いと思える例があります。

A:隙間風 [ス・キ・マ・カ・ゼ]
B:麦畑  [ム・ギ・バ・タ・ケ]

※イントネーションはABともにNNNFF

 ABの押韻ペアの子音を分析すると、第1と5モーラ以外はFamilyに分類されると言ってもいい関係ですが、想像以上に「響き」ません。これは、近類子音で一致するよりも、同じ子音が一致していることのほうが、「響き」としてはより優位であるということを示唆しているように思います。

第1モーラ:完全に状態が異なる
第2モーラ:軟口蓋音・破裂音で一致、無声音/有声音で不一致
第3モーラ:両唇音・有声音で一致、鼻音/破裂音で不一致
第4モーラ:破裂音・無声音で一致、軟口蓋音/歯茎音で不一致
第5モーラ:完全に状態が異なる

4 押韻の評価指標

 上記の経緯から、現代においては「完全韻」「不完全韻」というカテゴリーだけでは、「響き」を定量的に考察することができないといえます。

 かつての記事で、「母音」「子音」「音節」「イントネーション(アクセント)」が「響き」の指標になると書きました。*4

 今回の考察で、その考えがよりクリアになり、深まったと感じます。

 上記の4指標「母音」「子音」「音節」「イントネーション」は、かなり確度の高い、押韻タイプの評価指標になると考えます。今後はこれらの指標を使い、その押韻ペアがどういう状態や関係にあるのか、ということを明白にしていくような議論に集約したいと考えます。

 用語については難しいところです。「押韻一致度」などを設定し、より一致する度合いが高いほど「響き」が出る、という評価指標にしても良いですが、しかし響かない押韻のほうが高度とする価値観もあり、定義によって価値まで決めてしまうのはつまらないでしょう。

 あくまで指標は指標として、どのような指標があるのか、その内容はどのようなものなのか、このあたりを周知していきたいです。


5 最終問題

 こうして色々な謎に自分なりの回答を見つけていくと、わたしに最後に残される、考察すべき領域は「知覚」(なぜそう感じるのか)なのかもしれません。

 ここの謎が開示されれば、最終問題である「語感踏み」への理解が発展すると期待しています。「語感踏み」は、途中の音節や音節数、母音やイントネーションを無視しても「響き」が出る、という謎の挙動をするので、もう少し追加的な原理現象への科学的理解の深化や、考察が必要そうです。

 「知覚」に関する研究になると「音象徴」や「聴覚心理学」から、さらに心理方面に進んだ領域になるので、もはや完全に音声学の領域からはみ出ていますが、いかに「押韻論」が総合的な領域にまたがる問題を抱えているのか、ということだと思います。

 また、世界各国の言語による押韻と比較した場合にどうなのか、より追加的な研究と考察が必要です。現在は主に英語と日本語を中心に考察をしていますが、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、ペルシア語あたりは押さえておきたいと感じます。ここは時間がかかりますが、いつかは解決したい領域です。

 文学や音楽の領域にまたがるような総合的な課題や問題にも、丁寧な回答を用意していくことも必要でしょう。文学は歴史的経緯もあり複雑ですが、わたし以外にやれるひとがいないのでやるしかありません。

 また、HIPHOPにわたしの考察を逆フィードバックしていくのは、上記の4指標を意識しなくても多くのラッパーは効果的な押韻を生み出せるので、需要がそもそもなく、なかなか難しそうです。が、必要になる瞬間は絶対にどこかであるので、分かりやすい回答を準備していくことは肝要です。

 実作への反映も進めていきたいところです。「音節」を理解したことにより、かつてより遥かに自然でなめらかな押韻を、詩歌で実現できるようになったので、今後はより「子音」をどのように運用するのか、効果的な考察をしていきたいと考えています。

 これらを何らかのかたちで論として発表していく必要もありますがって、やることが多すぎるんだよなぁ。完。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/