見出し画像

かぼちゃ色の季節の前(あるいは、大雨が去った夜)に。

前回からだいぶ間があきました。原爆のことに触れた次は、映画『オッペンハイマー』のことを、と思っていたのですが、昨晩のごく小さな出来事についてシェアすることにします。

―――今、ごく小さな出来事、と書きましたが、それは出来事というほどのものではないので、ただ、ちょっとした心象風景と言った方が正確かもしれません。同時に、あらゆる経験に大小の違いはないのですから、こうしてわざわざその心象風景を思い出して書こうとすることで、私はそれを、自分の経験として受け取ることを選んだ、ということでもあるでしょう。

―――そして、経験を選ぶという視点で見るなら、昨晩にまで遡る必要はなく、今朝のことを選んでもいいわけです。今日は、近くのスーパーマーケットの軒先に、さまざまなサイズ、色、形のパンプキンがずらりとお目見えした初日で、それは10月(ニューヨークの秋の、最も美しい季節!)(陽射しが斜めに差し込み、オレンジ色のパンプキンをさらにオレンジに染めて、樹々の黄色や赤の葉がそこに加わる、華やかな秋のタブロー!)の到来を祝福する風景で、私は、パンプキンを棚に並べているガエルという名の青年と、短いおしゃべりもしたのでした。それについて書いてもいいわけです。でも、まず思い浮かんだのが別のことだったので、「まず思い浮かんだ」ということに敬意を表して、その敬意だけを頼りに、そちらのことを書くことにします。

 昨晩、私は夜の10時前に帰宅しました。
 公園を通り抜けると、道をわたったところに住まいの入り口がありま
す。
 その公園で、

“痩身の黒人の男性が、身をくねらせ、叫び声をあげていました。
少し離れたところに、パトロールカーが停まっています。
男性は、車内の警官に向かって怒鳴っているのでした。“

 公園は、あと27年で200年を迎えるそうです。
 地元の住民たちにそれは愛され大事にされてきた公園。雁の夫婦の巣作りにも、毎年住民たちで手を貸してきました。私もそれに加わって、もう30年以上経ちます。
 公園の一角はチャーリー・パーカー通り(毎年夏にはチャーリー・パーカー・ジャズ・フェスティバルが開催されます)北側にはイギー・ポップがいて、東側にはジョン・ライドン、南側にはジャン・ケルアックが住んでいたこともあります。映画撮影でよく使われるバーもあれば、公園自体も、『ダイハード3』の舞台になりました。
 話題の絶えない公園の200年祭はさぞ盛大で楽しいものになるのだろうと愉しく想像しますが、私が生きてそれを目撃することは可能かもしれないけれど、27年後、、、果たして。私は一体どこにいることになるやら、、、全くわかりません。

 将来のことはさておき、麻薬売買や、それを一掃するための公園封鎖、マンハッタン初のドッグラン建設、、、色々な歴史を見てきました。レイプや殺傷、殺人事件も少なからず。ダークサイドでも話題が事欠かない場所ですが、また最近、少し物騒になってきています。夜遅い独り歩きは控えるようにと近隣担当の警察官の掛け声も。
 でも昨晩は、四日間降り続いた大雨がようやく止んだところでした。
 去ったばかりの雨の匂いが立ち込めている樹々の間に、すうっと足が吸い込まれていくようだったのです。

 そして、その場面に遭遇しました。
 ―――その場面? どんな場面?

 “痩身の黒人男性が身をくねらせて何やら叫んでいる” のを知覚したのは確かですが、それが何を意味するのか理解していないので、これでは、答えになっていません。
 若いパフォーマーが、雨あがりの夜の公園で、踊りながらセリフを練習しているのかもしれないし、
 すでに警察にマークされている薬物中毒でイカれたお兄ちゃん(おじさんかも。夜目にはよくわかりません)で、ナイフを振りかざしているのかもしれません。
 たまたま、公園をパトロールしていた警官が、しばし彼の言動を注視していただけなのか、
 通報を受けて駆けつけたのか、
 それとも、もしかして、
 一昨日の、近所の路上で、買い物帰りの妊婦が、通行人にハンマーで背中を殴られるという事件があった、その容疑者が彼なのか、
 はたまた、
 パフォーマンスが面白くて警官がつい引き込まれている(まあ、可能性としてないとは言い切れない)のか。
 男性の表情はよく見えないし、車内の警官の姿も私の目には届きません。

 つまり、私はまだ、何も見ていないということになります。意味が掴めないのだから、「こういう場面に遭遇したのよ」と誰かに話すわけにもいきません。このまま立ち去れば、わたしにとって、その晩、何も見ていなかったことになります。

 状況とは想念がつながり合ったもの、つまり、一つの関係です。だから、どんな状況においても、何かが欠けているとすれば、それは自分自身がまだ与えていないものだけということになります。意味不在のこの状況。知覚していながら、自分を与えていない状況です。傍観者のまま去るわけにはいきません。

 私は、男性と警官、両者の視界に入り、それでも少し距離を置いて立ち止まり、様子を見ていました。
 地面はまだ濡れたまま。他に誰もいません。
 男性は、
「ここで絵を描いているだけなんだ! お前ら一体なんのつもりだ! 俺を見るな! 立ち去れ! 出ていけ!」
 と、怒鳴っています。繰り返し、同じことを怒鳴っています。
(とすると、彼が手に握りしめているように見えるものは、絵筆なのか? そうだとするとどこに描く? 地面か? 木肌か?)
 やがてパトロールカーが彼との距離を縮め、ヘッドライトを明るくし、彼を間近に照らしました。

 この時点でわたしは、警官たちは、なんとしてでも、彼を公園から立ち去らせようとしているのだ、と理解しました。もうすぐ、夜間封鎖の時刻です。公園内で夜中に殺傷事件があったばかりなので、パトロールはより厳重になっているはず。誰一人見逃さずに公園を無人にし、それから鍵をかける任務があるのでしょう。

 若い警官たちの顔は、路上でしょっちゅう見ています。気楽に誰とでもおしゃべりする彼ら彼女らは、わたしから見ると、あどけなく初々しい若者たちです。ACIMの生徒にも警官がいます。またニューヨークの警官は、女性も多いのです。
 わたしは、彼ら彼女らが、“不審な行動をとる人物”を、怖がっていることを知っています。いつ発砲されるかわからない緊張があります。たとえば白人警官は、必ずしも全員が黒人差別で無闇に発砲しているのではないとわかっています。警官を2度も射殺して死刑囚になった黒人でよく知っている人がいますが、彼が恐怖で発砲したことも知っています。
(黒人に対してだけ、恐怖の不要な発砲や暴行があるわけではないのです。特にパンデミック後のニューヨークは、人種を問わず物騒な事件が毎日あるので、彼らは気を抜けないのです。)

 では、ここでわたし自身は?

 男性がなぜここにいるかまだわからない(わからないままだろうと思う)。
 警官は、彼を追い出せば済む。場合によっては逮捕。
 通りすがりで、ただそばで佇んでいるわたし。

 わたしは一体何をしている?
 わたしの役柄は? 
 わたしはここに何を望む? 

 わたしが望むのは、彼と警官の間に、衝突ではなく、コミュニケーションが生まれることです。
 男性が走り寄ってきて、ナイフをわたしの首に押しつけたりしないこと、それはもう、もちろんです。事件を誘い出すつもりは毛頭ありません。
 警官の緊張がほぐれること。彼らの手がピストルに伸びないこと。
 男性が、より明白な正気と自身の誇りを持って警官の存在を見られること。
 そんなひと時を、この公園全体の生命が見守っている、喜んでいるのを感じとること。
 わたしは、この場面を、そのように見たい。

 “この地上で経験することが、すべて夢ならば、どのようにその夢を見るか、何の夢を見るかを決めたい”
 と、思っていました。

 けれども、事態は平和の方ではなく、緊張を深める方向に進んでいる、という判断も生まれていました。
 強いヘッドライトに真正面から照らされる。
 それはどう考えても、不公平です。というより、すでに十分暴力です。照らされた方から相手がまったく見えないわけですから。
 でも、わたしが見たい夢は、もう一つの事件を公園の歴史に加えることではありません。

 やがて、夢が動きました。
 “All right!”
 男性が声の調子を変えました。
 “OK!  俺はこれからここを出るよ。俺は善良な市民だからな! お前らが望んでいるように。ここが真夜中に閉まることくらい承知している。ただし、お前らも出ろ! 同時に出よう。それでどうだ”
 
 なかなかいいではありませんか。
 彼が、ここで争ってもいいことないと計算したのか、まあ許してやるかと、器量の大きさを示そうとしたのか、意図はわかりませんが、彼は暴力に暴力を持って対抗する意志はないと伝えたのです。
 しばしの沈黙と静止の後、車のヘッドライトが一度点滅し、それから前輪が動きました。方向を変えて、ゆっくり出口に向かいます。
 そう、車の方が、男性より先に動いたのです。これも、なかなかではありませんか。
 そこで彼も、歩き出しました。堂々たる歩きっぷりで。痩せてナヨナヨと見えた姿は、今や引き締まった若々しい体躯と目に映ります。

 そして、驚いたことに、パトロールカーは、わたしの近くを通る時、一度クラクションを短く鳴らし、わたしに合図を送ってくれたのです。
「さあ、君もうちに帰りなさい」という合図だったのか。「心配いらないよ。平和理にすんだ」という挨拶だったのか。
 彼の方もまた、わたしに近づきはしませんでしたが、振り返って、両手でガッツポーズを見せてくれました。
 両者とも、わたしがそこにいることを承知していて、わたしのことも、その夢のステージに加えてくれていたのでした。
 わたしは、公園にいつものように、おやすみなさい、と心の中で挨拶し、帰宅しました。
 そうして、今朝は久しぶりの青空、そしてパンプキンの登場、となったのでした。

 これは、“わたしが”、公園内にあった緊張関係を解いて平和を運んだ、という話ではありません。
 わたしが、叫ぶ男=パトロールカーの中の二人の(おそらく)警官=夜の公園のあらゆる生命たちと、自分の夢の中で一つになった、一つの祝福(というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)を共有した、という、自己満足の小さいストーリーです。
 でも、自己満足とは言え、自分の夢の中で、その登場人物たちとひとつの思いを共有できたという感覚をもたらす経験は、自分の心の中の分裂(ここに黒人の男、あそこに警官、最近の物騒な事件の‘数々、酷暑、大雨、洪水警報、遠くで続く戦争、等々)が、たとえほんのひとときでも、消え去った経験であり、誰にわざわざ伝えるまでもない取るに足らないことではなかったということです。

 今日の夕刻、また雨が降り出しました。今月のニューヨークは1882年以来の降水量だそうで、非常事態宣言と、外出を控えるようにとの注意報も出ました。夢は続きます。その夢に参加するかどうか、どう参加するか、すべては自分次第です。






 














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?