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みんな、怒ってますよね。

 40年前に憧れたフラン・レボウィッツ。今ではもっと身近に感じられています。同じニューヨークに住んでいるからということもありますが、なんといってもマーティン・スコセッシのおかげです。

 彼が監督し自身で彼女にインタビューしているNetflixシリーズの題名はPretend It’s a City.

『都会を歩くように』と邦題がついていて、彼女は確かにニューヨークを歩き回るのですが、ニュアンスとしては、わたしが訳すとしたら・・・『ニューヨークのわけないっ!』とか『まさかこれでもニューヨーク』とか・・・。レボウィッツの口から放たれるニューヨークライフについての豆鉄砲の数々にスコセッシが笑い転げる、そのやりとりには、その連投される悪態とは真逆の、“ニューヨーク愛”がはじけているのだけれど、レボウィッツが「かつて、ゲイは他で暮らせなくてニューヨークに来た。ニューヨークはゲイの人口密度が高くて、そのみんなが怒っていた。その怒りがニューヨークを作ってたでしょ」と言うように、ニューヨーカーは怒りで愛を表現するところがあって、それはここに住み始めた時に気づいていました。

 たとえば古い映画館が取り壊されると大騒ぎして怒る。私はそこでイレイザーヘッドを観て、繰り返されるブレードランナーの上映にも何度か行き、いつもガラガラでした。自分が行かないくせになくなると怒るの?と当時は思ったけれど、行くか行かないかはまったく関係のないことで、「そこにそれがある」ことこそが、大事なのでした。近くに自分の好きなもの、誇りとするものがある、と感じるその感覚が自分を支えてくれる、と言う以上に自分を日々養い作っていく、というような。

 うちでホームパーティをした時は、ちょうど小売店がいくつも潰れてそこに大型チェーンのスーパーマーケットができた直後で、二ダースほどの若者と中年とが(当時のわたしは若者の方のグループ)午前2時を過ぎてもまだ、そのことを嘆いていたものです。

 そこに老舗のピザ屋がある。あそこにあの芝居小屋がある。この通りにチャーリーパーカーが住んでいた、あの画廊が見つけてくる新人はみんな成功する、ラ・ママは今年も見どころいっぱい、そこのコミュニティガーデンはたくさんカボチャを作る・・・そういうことが大事だったのです。ピザを食べなくても、芝居を観なくても、ラ・ママにいつも通っているわけでなくても。はたまたハロウィーンなんかに全く興味がなかったとしても。

 ニューヨークは確かによそ者が集まって騒がしくしている街だけれども、よく、そのよそから来た住人たちが口にする「ニューヨークにしか住めない」というのは、ニューヨークのエネルギー、芸術性の深み、層の厚さ、ハードルの高さ、などという聞こえの良いものではなく、その意味は、ニューヨークに支えてもらいにニューヨークに来て住む、ということなのではと感じています。
 それで、支えてくれないと怒る。自分の人生がかかっているので真剣に怒る。

 君がそこにいるでしょ。それだけでいいんだ。それが僕には大事なんだ! 君にはそこで君らしくいてほしいんだ!

 これって甘えでしょうか? ニューヨーカーは子どもなんですね。支えられないと生きられない。支えろと堂々と言う。そしてだから、ニューヨーカーは支えてくれるあれこれを愛してやまないのですね。皆、自分勝手な「僕の・わたしのニューヨーク」の中で生きている感じです。
 ニューヨークの印象を、若々しいね、と聞くこともよくあるけれども、それはそんな子どもじみたところを綺麗な言葉で表現しているのでしょうか。

 この勝手さは、『甘えの構造』で論じられた日本社会の甘えの在り方とは真逆です。「自分は生きたい。だから君にも生きてもらいたい」「自分は妥協したくない。だから君にも妥協してもらいたくない」というもので、甘えによって関係性を潤滑にしようというベクトルとは反対の、関係性に絶対の信頼を置く気持ちの向け方です。
 関係性をコントロールしようとする代わりに、絶対の関係性の中で生かされていると、決めているというか、そのことがわかっている感じ。

 そう言えば、スコセッシのシリーズの中に、レボウィッツがトニ・モリスンと対談しているシーンが一瞬だけ映し出されます。トニ・モリスンは、ノーベル文学賞ほか数々の主だった文学賞を受賞したアフリカ系アメリカ人作家です。レボウィッツが「自分が唯一信頼しているライター」と言ったトニ・モリスン。

 この辛口レボウィッツをうっとりさせてしまう彼女の声といったら。口から発せられる声も。書きつけられる言葉の行間から漏れてくる声も。長編Beloved は、翻訳も出ているけれど、わたしは英語で読むことにして、(長いし、黒人言葉の連続、理解不能箇所多出で、かなり迷った末。)想像通り時間がかかったけれども、残すところ5分の1くらいになった時にはもう、終わってほしくなくて、読み終えたくなくて、その幸せな葛藤の中にずぶずぶとはまり込んでいたものです。

 そのトニ・モリスンが語ったこと。

 人を「他者化」するのは、自分の帰属と優越性を確かめたいからなのです。

 ここで言う「他者化」とは、人種差別のことなのだけど、これをアメリカにおける黒人問題のことだとして聞くのであっては、「アメリカの黒人問題」を「他者化」していることになって、何も聞いていないのと同じになってしまいます。

 「他者化」とは、実は他者なんていないのに、相手を自分と違う存在にしていることで、そうする理由は、

1.あなたとは、わたしとは違う存在のこと。
2.あなたとわたしは違うから、本当には理解し合えない。
3.でも同時に、あなたとわたしが違うからこそ、離れ場所からあなたを見て、あなたを「こういう人」と判断し把握することができる。
4.あなたという存在を把握することで、わたしはあなたに対して優越感を持てる。
5.それはわたしの安全にとって重要なことなので、わたしはあなたを判断し把握しようとし続ける。もちろん、そのデータは随時アップデートする。6.逆にあなたがわたしを判断することはできない。わたしの心はあなたには見えない。
7.わたしの心は、自分の身体に隠されていて、自分から伝えていないことは人にはわからない。わたしの帰属はわたしの身体。
8.誰にも知られていないわたし、あなたとは違うわたしは、身体の内に隠れている限りは安全だけれども、自分で自分を守るためには、何より身体を守らなければならない。
9.だからわたしは注意深くあなたを少し遠ざけておきたい。
10. 基本的に、わたしは自分の身体を守ることに忙しいので、あまりあなたにかまけている暇はない。

 という一連のドラマを演じ続けるためにあるのではないでしょうか。

 「他者」という概念、決めつけ、思い込みこそ、差別の始まる場所。「他者は実際存在する」「その他者をどう見るべきか」などという”根拠のない”前提を出発点にするのは、誤った設定だと思います。謙虚になって、一歩下がって、「他者に見えるあなただけれど」と、スタートすると気持ちが良いのですね。

 相手と自分、どう違うの? どこが違うの? どっちがいいの? どっちが“得”なの? と、差異を詳細に見ていきながら、比較検討が始まり、その人と自分の立場、社会での居場所を判断していくうちに、競争心が生まれたり、いじめや村八分や、大規模な排除、抹殺へと、どんどんドラマは進んでいくでしょう。
 人を見れば、それはもう自分ではない人にしか見えないわけなので、つまり違いばかりが際立つのは当然のことです。知覚とは違いによる区別ですから。その相手の中に自分と同じものを探り当てて、近寄りあっていく、受け入れ合っていく、という方向にドラマが進めば、それは差別の反対、平和・共存の道、あなたはわたしだった、わたしはあなただった、というゴールへの歩みということになるでしょう。
 でもそれよりも確実なのは、「そこにいてくれるだけでいいからさ!」という絶対信頼ではないかなと思うのです。あなたでも自分自身でもなく、あなたと自分の間にある関係性こそが、命綱、というより命そのものと感じられるなら、もはや、相手を見張ったり不平不満を溜めたりする必要はなくなりますものね。なによりも、自分を見張り、咎め立てすることからも、解放されます。

 解放されると、、、子どものように怒れるのでは? アンガー・マネージメントより、つまり怒りをなんとかしてコントロールしようとする努力より、優越感も劣等感も自己防衛も攻撃も比較も競争も損得勘定もなく、”天真爛漫に”その怒りで宇宙いっぱいの曼荼羅を描けるのでは?

 

 

 


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