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メキシコ原住民に学ぶ「世界とわたし」の関係性を革新する知恵(交響のコミューン)

先日、こんな記事があった。

https://www.fastcompany.com/40528502/this-school-focuses-on-teaching-students-happiness-not-math

インドで個人の幸福感やエモーショナルインテリジェンス(EQと呼ばれる)にフォーカスした学校ができるという記事だ。

世界や物事に対して自分がどのように反応しているか、受け取っているかというメタ認知と、それによって起こる自分の心のあり方の変化に焦点を当てた教育機関として、個人的にもとても注目しているのだが、

これを読んで、ふと本棚から引っ張り出して読み直した本がある。

日本を代表する社会学者である見田宗介先生の名著「気流の鳴る音〜交響するコミューン(著者名・真木悠介)」だ。

エモーショナルインテリジェンスに代表されるような「自分の内側で起こっていることをメタ的に認知し、適切に扱う技術」が、どうして今、僕らに必要なのかを生々しく伝えてくれている気がしたのだ。

◯自己の世界の自明性を突き崩し、異なる世界を理解する

「気流の鳴る音」では、メキシコのインディオ、ヤキ族の老人ドンファンの暮らしや教えが紹介されているのだが、

その教えの中の一つ、「世界を止める」ということについて、見田先生はこう書いている。

・生命体としての我々と外界との関わり方は、社会の成員として成長する過程の中で、特定の型取りを持って安定してくる

・このような外界との関係性の特定の型取りの両面として、その個体の「世界」と「自己」とが。蝶つがいのように相対して存立している(ドンファンはこれをトナールと呼ぶ)

・この特定の「世界」ー「自己」のセットは、一旦セット・アップされると、それ自体の自己完結的な「明晰さ」のうちに凝固し、生命体の可能性を極限してしまう

・ドンファンの言う「世界を止める」「自分とのおしゃべりを止める」とは、このようにあらかじめプログラミングされた「世界」=「自己」のあり方への固着からの自己解放に他ならない

・これによって実践的に自己の「世界」を解放し、豊穣化することが可能となる

つまり、「世界を止める」というのは、

自分の内側で起こる判断や先入観(おしゃべり)を止め、

自分が無意識的に前提としている「世界」を相対化(メタ認知)することで

異文化を理解し、自己の「世界」の自明性(当たり前としている常識)を突き崩し、より豊かに生きるための営みなのだ。

そして、ここでいうそれは、

"「20エレのリネン=1枚の上衣」という等値は商品世界の外にある人間、例えば「双生児は鳥である」という文化を持つヌアー人にとってナンセンスでしかなく、「商品にねだんがある」とか「身体は資本」というような近代市民の表現が奇妙な信仰にみえる"

というくらいのレベルで、自己の世界の自明性を突き崩すということなのである。

(だが、同時に、それは我々と共同体との関係性をリセットし続けること意味し、自由だが寂しいものではないのか?という問いかけも湧いてくる。これについてはまた後日)

◯五感を解き放つ

そして、見田先生はドンファンのこの「世界を止める」と言う概念について、言語性のみならず、身体性の水準にまで踏み込んでいく。

“我々の文明は何よりもまず目に依存する文明だ。目の世界が唯一の「客観的」な世界であるという偏見が我々の多くの中には存在する。このような<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく、世界をかぐ、世界を味わう、世界にふれる、これだけのことによっても、世界の奥行きはまるで変わってくるはずだ”

これまでは、(既成概念の評価や判断に基づく)内なる対話の流れを止めるという言語性の水準で語られてきた「世界を止める」ということが、対応する身体性の水準を持つことが示唆される。

これは、例えば、これまで主に精神性の世界で語られてきたマインドフルネスや瞑想が、自らの感受性の高い身体的基盤や判断能力を高める技術としても注目されているのも同様の示唆だと言えるだろう。

http://www.sankei.com/column/news/180111/clm1801110005-n3.html

↑瞑想が身心にどのような影響を及ぼしているかという研究。気になる箇所も多くあるが、こうしたメカニズムが少しずつ解明されていくのだとすれば面白い。

そして重要なことは、僕らは視覚優位で世界を認知しやすいということだ。

見田先生は、五感の配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)について、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろう(つまり、最も命懸けをしなくても知覚できるのが視覚)と書かれてているが、

だからこそ、

"世界をきく、世界をかぐ、世界を味わう、世界にふれる、これだけのことによっても、世界の奥行きはまるで変わってくる"

のだろう。

そして、冒頭のインドの教育機関でフォーカスされるような、世界や物事に対して自分がどのように反応しているか、受け取っているかというメタ認知能力を高めるためには、言語的な処理(頭)だけでなく、身体性、特に視覚以外の五感の情報にアクセスできるかが大切になるということだ。

◯異質なものと触れる

この本では近代文明の全く異なる世界として呪術師の話が出てくるのだが、

“「呪術師の世界」は「普通の人の世界」の自明性をくずし、そこへの埋没からわれわれを解き放ってくれる翼だ。しかし一方「呪術師の世界」を絶対化し、そこに入りきりになってしまうと、今度はわれわれはその世界の囚人となってしまう。どちらの世界にも身を委ねることなしに、主体性を保持する力をドンファンは「意志」と呼ぶ。”

とある。

誤解を恐れずに拡大解釈をするならば、

異世界(ここでは呪術の世界)が正しいか正しくないか、というのはもはや問題ではなく

自分が当たり前と思っている「世界」に囚われずに生きるために「理解できない異質なもの」に触れることが必要なのであり、

そうして、はじめて生きるということが手触り感を持って迫ってくる

ということなのではないだろうか。

そういえば、武道家の内田樹さんも能楽師安田登さんとの対談の中で、「この世に存在するもの」だけと関わっていたのでは、「この世」の仕組みは決して見えてこない。孔子の「六芸」などは、この世の仕組みについて俯瞰的に見るための能力開発の知恵だったのではないか、と語っていた。

前回の投稿で、安富先生のコミュニティ論やサポエンス全史を引き合いに「"共同体"や"会社"という虚構をいかに再構築するか」という話を書いたけれど、

この辺りにも実は大きなヒントがあるのではないかと思う。

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