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はじめに…私が教員を辞めた理由

 私は小学校のころから友達が困っているとどうにか力になりたいと思う子供でした。勉強がおもうように進まない友達に、算数の宿題の考え方と解き方をFAXしたり、いじめられている(陰口を言われている)クラスメイトがいると、大きな声で「こんな幼稚なことする人いるんだ~」とわざと言い、一人ぼっちの友達と一緒にいるような子供でした。

 正義感の強い私は、「先生になりたい!」という夢を持ったのも自然のことだったように思います。

 そして、公立中学校の理科の教員として社会人生活をスタートしました。

 教員生活1年目は自分のクラスの生徒と向き合い必死に過ごし、2年目の時、新任の先生へ研究授業を行い、認められるうれしさ、先輩に悩みを打ち明けられる環境にありがたさを感じる日々でした。自分のクラスでは、前年度からの受け持ちで、教育指導的に大変な女の子、男の子を受け持ち、自分もどのように関わっていこうか試行錯誤しながらクラス経営をしました。教室環境が大切だと考え、黒板横の教員ロッカーをきれいに整頓したり、カフェカーテンを使ったりと、なるべく家庭的な温かさがでる教室を心掛け、毎朝黒板にメッセージを書き、自分の机を教室に置き生徒との会話を楽しみ過ごしていました。担任が太陽のように存在していると必然とクラスも明るく、自主性が見についてくるなと実感していました。まさに、天職でした。

 5年目、6年目と初任者への指導等も行い、仕事への充実感もありました。
 8年目の時、産休育休明けで子供を抱えての復帰でした。保育園は激戦で入れず、無認可の園に入園することが決まり、毎朝1歳児と3歳児のお弁当を作って、職場に向かう日々でした。今までの経験を財産にして必死にすごしていました。しかし、子供が発熱や嘔吐などで通院するため、どうしても早退又は休まなければならなかった時、上司(校長、教頭)が疑うかのように病院の領収書を提出するよう求めてきました。ほかにも介護休暇で休みを取る先生たちもいましたが、なぜか育児で休みを取るときだけ言われました。毎朝、保育園から駐車場まで走り、学校の駐車場から職員玄関まで走り、帰りもまた走りと時間にも余裕がなく過ごしていました。
 熱のある娘をおんぶしながら、早朝に自習課題の印刷をしたこともあります。どうしても休まないといけない時は、授業の交換をしてもらって何とか生徒に迷惑がかからないように授業をやりくりしていましたが、認められない悲しさもありました。夫も同じ職業なので、今お願いしてもきっとダメだな、断られる絶望感を味わうなら自分でやりくりして過ごそうと考えていました。自分の子供にも100%の力を注ぎ、生徒にも力を注ぎ、なんで私だけがこんなに頑張らないといけないのだろうかという気持ちを毎日持って生活するほど、疲れ果て、心に余裕がなくなってしまっていました。

 3歳の長女が飲み物をこぼしただけで、怒り、その怒ったことを反省し、自分を責める。1歳の次女のわがままに腹を立て、暗い部屋に入れたこともあります。保育園へお迎えに向かう車の中で、あれだけかわいかった子供たちの顔を思い出そうとしても、笑った顔が思い出せず、泣きながら保育園への道を運転した日もありました。それでもお迎えに行くと、「ママ~」と走ってくる我が子に申し訳なさでいっぱいでした。
 自分は何のために働いているのかと自問自答する毎日でしたが、それでも教員という職は天職だと思っていたので、生徒にも100%の力を注がないと申し訳ないと思い、寝る時間を削って仕事をし、自分が面倒をみた生徒の科学展では必ず優秀賞を獲得し、自分でも教材を作って教材教具展では毎回賞をとっていました。

 学年のスタッフ間での仕事はやりがいのあるものでしたが、職員室内の上司からのチェックが、毎日「今日は遅刻してないよね?」「明日はいるの?」と言われ続けることで、自分の存在価値が自分の中でも薄れていきました。2年間我慢しましたが、耐えきれずに退職をしました。
 退職をすると辞表をだしたら、教育委員会の人まで来ましたが、決意は揺らぐことはありませんでした。

 自分の子供たちに仕事を辞めると告げると、「ママ!よかったね!朝、忙しくないね」「本当にもうお仕事行かない?やった!ママとず~っと一緒にいられるね!!」とぱ~っと明るい笑顔で言いました。子供たちも我慢をして、忙しいママに必要以上に気を使って生活していたのだと悟りました。あれだけ、教員が太陽のように存在していると必然とクラスも明るく、子供も輝くと実感していたのにもかかわらず、自分の家庭の中ではそれを怠っていたということに気がつきました。
 退職までのラスト2週間は本当に自分らしく、楽しく仕事ができ、授業での生徒たちの熱中する熱量を感じることができました。また、自分の家庭でも、私(母)が心が安定して過ごしていると、必然と子供たちも落ち着いて過ごしていたように感じました。冷静に、落ち着いて丁寧に過ごしていくと、家庭環境でも母親が元気に太陽のように存在している家庭の安定さを肌で感じることができました。
 2年ぶりに子供たちと改めて向き合いながら日々を過ごしていると、不登校生徒のための学習室を手伝ってくれないかと、私の退職を知った、お世話になった校長先生から連絡がありました。しばらく家庭で過ごしたかったのですが、どうしてものお願いに、時間的条件を提示し、短時間勤務で公立中学校の学習室の支援員といて勤務をすることにしました。教室に入れない生徒が人目を気にしながら登校し、やることもなく過ごしている現状をみて、自己肯定感の低い子が多いなと感じました。まるで、数か月前の自分をみているようでした。なので、生徒自身の好きなこと、たわいもない話、生き物のお世話、季節ごとの教室の飾りつけなど関わっていくにつれて、この教室ではどんな話も受け止めてくれるという安心感を伝えるように心がけると、子供たちから話してくれるようになりました。自分で部品を集めてPCを組み立ててしまう子や、読書家な子、ジグソーパズルが得意な子など様々でしたが、認めてもらえる安心感でだんだんと学校で過ごせる時間が長くなり、1年も経つと教室に復帰する子がほとんどでした。ここでは、私自身がポジティブに、時にオーバーすぎるほど子供たちを誉めながら過ごしていました。
 「自分に自信をもった大人と関わる子供は輝く。」これが私が経験してきた中で大切な気づきです。大人になってから自分に自信を持つことはとてもエネルギーのいることです。けれど、自分の強みに気づいて輝くことが出来たら、自分の幸せを相手に分け与えることが出来ます。
 心が疲れている先生たちをもう一度自分に自信をもって輝く場を作りたいと思っています。そうするとおのずと子供たちに還元されることを知っているから。だから私は子供を輝かせるため、子供を取り巻く大人たちを輝かせたい。これが、今の私の思いです。

 先生!がんばれ~~~~~!!!

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