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ミスタードリラーが生まれるまでの話 第1回「憧れのナムコ」

脳出血で死にかけた私は終活として自分史を書き始めた。

私は今年、突然の脳出血で死にかけたことをきっかけに、50代ですが「終活」を始めることにしました。その終活の一環として50歳までの半生をまとめた「自分史」を作ろうとしています。
自分史を書く上で外せないのが、私が28歳頃に企画とディレクターを務め、1999年に業務用ゲームとしてリリースされた「ミスタードリラー」というアクションパズルゲームです。

ここでは、私がナムコに入社して初代ミスタードリラーを考案するまでのエピソードを何回かにわけて書いて行きたいと思います。
なにぶん20年以上昔の話なので、記憶違いがあると思いますが、温かい目で見てやってください。

ナムコゲームに夢中になった10代

1980年代に10代を過ごしていた私にとって、ナムコの名作ゲーム達は、私の人生に大きな影響を与えました。
特に好きだったのが「MAPPY」で、最短攻略ルートを必死に暗記してトライしたことを憶えています。「ギャラクシアン」、「パックマン」、「ディグダグ」、「ゼビウス」等どのゲームもオリジナリティーにあふれていて素晴らしく、ナムコは自分にとってゲーム作りの天才達が集う「憧れの会社」でした。そして当時も今も、その気持ちは変わっていません。

同時にその頃、マイコンがブームになっていました。MSXという数万円で買える安価なPCが普及し始めていたのです。
三菱のMSXをお年玉で入手した私は、BASICというプログラム言語でゲーム作りを学びました。ゲームセンターでお金を出さなくても、自分で作れば無料で何回でも遊べるのです。小遣いの少ない中学生には夢のような話でした。
夢中でプログラムを憶えました。授業中もノートに鉛筆でひたすらBASICのプログラムを書くくらい夢中でした。
パックマン風の迷路ゲームを作って友達に遊んでもらったり、敵の追いかけルーチンの賢さを友達と競いあったりしました。

一度だけマイコンBASICマガジンに応募した「BALLOON」というゲームが掲載された時は本当に嬉しかったです。将来はゲームプログラマーになりたいとその時は本気で思いました。

編さん、影さんにも褒められたBALLOON

その後、BASICの処理速度に満足できなくなった自分はマシン語を覚えようとしましたが、あまりの難解さにあえなく挫折してしまいました。
そのうちゲーム制作への熱も冷めていき、いつしか一介のゲーム好きになっていました。

憧れのナムコに入社

大学では法律を学んだのですが、当時はあまり法律に興味が持てず、正直学部選びは失敗したと思いました。
もう流される選択で後悔したくない、就職は自分が好きなことを基準に選びたいと思い、子供の頃に憧れた会社、ナムコの就職試験を受けることにしました。
ナムコは、当時としては画期的な「職種別採用」をしていました。その頃は会社に入った後に「開発」「営業」といったように部署が振り分けられるのが普通だったのです。
最初から「企画職」として審査してもらえるなんて。さすがナムコは神会社だと信仰心をあつくしたのでした。
そして、採用が決まったときは嬉しくて天にも昇るような気持ちでした。


つづく


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