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【無料で聞けます】『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬さんインタビュー前編・後編(書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」6月2日・9日放送分)

※MRO北陸放送(石川県在局)では、毎週木曜日の夕方6:30〜6:45の15分間、書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」を放送しています。このシリーズでは、月毎に紹介する本の一覧と、放送されたレビューの一部を無料で聞くことが出来るPodcastのリンクを記載しています。

スマホの方は、右上のSpotifyのマークをタッチすると最後まで聴くことができます。

【前編】


【後編】

<収録を終えて>

『同志少女よ、敵を撃て』で、2021年アガサクリスティー賞を受賞してデビューを果たし、その後、第166回直木賞ノミネート、2022年本屋大賞受賞と、快進撃を続ける逢坂冬馬さん。
今、最も注目度が高いと言っても過言ではない作家さんに、インタビューをさせていただく機会に恵まれました。
(関係者の皆様、本当にありがとうございました)

「神は細部に宿る」

お話を伺いながら、私の頭に浮かんだ言葉です。
(インタビュー中は、何だか恥ずかしくて言えなかったのですが)
細かなところまでこだわり抜くことで、全体の完成度があがる、というような意味で、主に芸術の分野などで使われる言葉です。

この「神」という文言は、完璧なもの、完璧な世界を表現するための言葉なのだと、私は長年思っていました。
だから、時と場合によっては「美」とか「完全」とか「究極」と言うような言葉に置き換えてもいいのだろうと考えていました。

でも、逢坂さんにお話を伺いながら、ふと気が付いたのです。
「神」は、まさしく神様のことであるということ。
他の言葉に置き換えてはいけない、唯一無二の表現であるということに。

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『同志少女よ、敵を撃て』で、第二次世界大戦下のソ連に生きる主人公のセラフィマは、故郷の敵を打つために狙撃兵としてドイツと戦うことを決意します。物語は、セラフィマの(なんのために戦うのか?)という問いを軸に、迷いや葛藤を経ながらも懸命に答えを探そうとする彼女のひたむきさをエンジンにして進んでいきます。

優秀な狙撃兵として戦うセラフィマは、物語の中で3度、銃を構えながら「カチューシャ」という、当時ソ連で流行していた歌を口ずさみます。
逢坂さんがそこにどんな意味を込めたのかは、上記に貼ったインタビュー前編でお話された通りなのですが、率直に言ってそれは、読者には通常伝わり得ない部分かと思います。
逢坂さんご自身が、各地で様々なインタビューを受けながらも、今までお話したことはなかったと仰っていました。

読者にはきっと伝わらない、なのにどうして、そこまで書き込むのか。

それは、この文章の冒頭で述べた問いと重なるように思います。

Q.なぜ「神は細部に宿る」の「神」は、他の言葉に置き換えられないのか?

物語の中で、特に印象的なシーンであるにも関わらず、演出の意図が隠されている理由。むしろ、隠されていることにすら巧妙に気づかせない理由。

それは、その演出が「読者に向けたものではない」からではないでしょうか?
もっと大きく、もっと密やかで、もっと神聖な何かへ向けたものだったからでは、ないでしょうか?

例えば、神様のような。

A.細部に宿るのは、神様へ捧げる祈りだから。

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もちろんこれは私の勝手な想像です。
でも、一つの作品が描かれる時、一つの世界が創造される時、何かそこには人間の世界ではない、不思議な何かと触れる瞬間があるのではないかという気がしたのでした。

逢坂さんは、今後も物語を書き続けていきたいと仰っていました。
既にSFのアンソロジーにも参加してらっしゃって、発表する作品の幅を広げてらっしゃいます。(やはり今でも、書き終わった後には口内炎を作ってらっしゃるのでしょうか?)

逢坂さんは、今後どんな作品を書いていかれるのでしょう。
それはやはり、誰にも気づかれない、神様にしか届かないような何かを隠した物語なのでしょうか。

それでは、今日はこのあたりで。
またお会いしましょう。

<了>

記載したSpotifyのリンクから聞くことが出来るのは、番組の一部を抜粋したものです。BGMや、番組を応援してくださっている「金沢ビーンズ明文堂書店」のベストセラーランキング、金沢ビーンズの書店員である表理恵さんの「今週のお勧め本」は入っていません。完全版はradiko で「木曜日のブックマーカー」と検索すると過去1週間以内の放送を聞くことが出来ます。

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