斎藤環さんのnote「感染した時間」を読んで

最近、ようやくコロナ禍の時間感覚が自分の身体に馴染んできたという感じがしていた。それはひょっとしたらもともとうつ病患者である僕の精神の問題ともかかわっているのかと思っていたが、そうではないようだ。

文中で語られる「時間線の複数性」を一気に縮減し、単純化した政府による「不要不急」の活動の自粛要請。

それは、僕らに隔壁(isolation, 孤立、孤独)されている感覚を強い、それを覆い被せた。

精神医学における「解離症。」

仮にここで述べられている「離人感」が意識の退行、「より未熟な意識状態に陥る」ならば、それは僕の感覚にやさしい? 社会現象なのかも知れない。何しろ以前にもまして今、生活が充実しているように感じられる、(だがそれは今思えばちょっと前までは単なる錯覚だった。)あるいは、心が穏やかで、急き立てられるような感覚に常に張り付かれていたコロナ以前の時間感覚に比べると、ともかくなにかこう、楽なのだ、今。

ただ、よくよく考えてみると、最近の僕は、斎藤環さんは「活動——何かをすること——の機会の多様性のみが複数の時間線を育み、われわれの日常のリアルを支えている」と書いている。この「複数の時間線」をコロナ禍の状況下で僕なりに獲得しつつある、今、少しずつ適応しつつあるということなのだと思う、そう思い始めている。

きっと、人間は意外と柔軟で、いい意味でいいかげんな生き物なのだろう。そのいいかげんさが、きっと今、いちばん求められていることなんじゃないかと、一人のうつ病患者は今、そういうことを考えている。

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