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「日本らしい」音楽とは何か

今週は邦楽ウィークとして、6枚のJ-POP作品を聴いてきました。その中で、「これは日本っぽいなぁ」と思うところがいくつかあったのですが、じゃあそもそも現代のポップスやロック、流行音楽に現れる「日本らしい」音楽要素とは何か、ということを考えてみたいと思います。

日本音楽の歴史

はじめに、軽く”日本音楽の歴史”について振り返ってみましょう※1。日本音楽は、外国音楽の輸入 → 外国音楽の日本化 → 日本民族音楽の隆興 → 外国音楽の輸入…というサイクルを繰り返している、とみなすことができます。国際音楽時代と民族音楽時代との交代、反復の歴史とすると、次の8期に分けることができます。

第一期:原始民族音楽時代(?~4世紀)

日本民族の成立(西暦一世紀前後)から朝鮮半島の音楽が輸入されるまで。

第二期 大陸音楽輸入時代(5~8世紀)

雅楽(貴族音楽)、声明(仏教音楽)が盛んに輸入された時代。輸入された音楽をそのまま演奏することが良しとされた。嵯峨上皇・仁明天皇による”楽制改革”の前まで。

第三期 大陸音楽消化時代(9~11世紀)

前期に諸外国から輸入された大陸音楽が日本人の感覚で整理、改められた時代。外来様式による日本人の作曲も現れる。古来の伝統的な民族音楽も大陸音楽の影響で改められた。だいたい平安時代。

第四期 民族音楽隆興時代(13~16世紀)

大陸音楽に圧迫されたかに見えた民族音楽が民衆の中から次第に勢いを得た時代。前期である鎌倉時代には平曲、後期である室町時代には猿楽能浄瑠璃が起こった。

第五期 民族音楽大成時代(17~19世紀)

三弦が琉球から堺に伝来。ここから後の時代が日本音楽史の近世となる。江戸幕府の鎖国政策と、幕藩体制を基本とする平和政策により独特の音楽文化を作り上げた江戸時代にあたる。

第六期 洋楽輸入時代(19世紀後半~20世紀初頭)

明治維新による変化。維新直前から軍楽として、維新後からは教育音楽、次いで芸術音楽として洋楽が勢いよく流れ込んだ時代。明治時代全体は奈良朝の頃と同様、外国音楽の直輸入時代だった。

第七期 洋楽消化時代(20世紀前期~後期)

大正時代から第二次大戦終了までは洋楽は単に輸入されただけでなく洋楽を基礎にした日本的な作曲も行われるようになった。しかし、西洋文化心酔の風潮は一般に変わらず、民族的な伝統音楽は「日陰者」の苦労をなめた時代。

第八期 民族音楽隆興時代(第二次大戦以降)

第二次大戦は惨敗に終わったが、音楽をはじめ日本の民族文化はかえって再認識された。いわゆる洋楽界においても欧州や中国の民族主義の影響を受けて民族主義的な作曲活動が起こり、邦楽界も自信を取り戻して「日本古来の文化」として表舞台へ進出を始めた。

第八期以降は海外から得られる情報量が飛躍的に増え続けているので、このサイクルが短くなり、「マンボ(ラテン)ブーム」「エレキブーム」「ロックブーム」「洋楽ブーム」…など、いろいろなブームがあり、洋楽(主に英語圏のアーティスト)が輸入され、そのスタイルを模倣するアーティストが日本から生まれ、そして日本独自の民族音楽と融合させていく、という流れが繰り返されています。

「洋楽」と「邦楽」の違い

明治維新以降入ってきた「洋楽」と、それ以前から日本にあった「邦楽」では明確な違いがあります。その差異を説明する前に、一つ特筆すべき点として、日本よりむしろ洋楽(欧州音楽)の特殊性を書いておきましょう。それは純音楽(観賞用の音楽)である、ということですね。オーケストラは「音楽が主役」ですが、実は世界的に見るとこうした「純音楽」が発達した社会はむしろ珍しい。今では当たり前のようになっている「音楽だけを鑑賞する」という文化は、中世ヨーロッパで発達したある種特殊な文化です。

日本ではそれまで音楽というのは能や歌舞伎、浄瑠璃の伴奏、歌劇の一部であったり、宴会の場の小唄(芸妓の舞と歌)、演説歌(社会風刺の狂歌だけでなく今でいうCM的なものを街角で歌う、チンドン屋の走りもあった)、盆踊りの音頭など何かの「一部」でした。「音楽単体」で成り立つ、聴くということはほとんどなかった。なので、そもそも「音楽」に対する価値観、扱い方が違う、ということが音楽的構造以前の社会的背景として大きな差異です。

さて、洋楽(ここでは西洋音楽)と邦楽(日本古来の伝統音楽、江戸時代以前)の聴いてわかる明確な差を考えると、リズムとハーモニーの有無が挙げられます。ここでいうリズムとは等長の拍の2または3分割を基礎としたもので、その拍自体はまた2拍子または3拍子の”小節”内の強拍と弱拍に組み込まれる、というもの。ハーモニーとは平均律音階と協調和音、ピアノが支配する和音構造です。

小難しく書きましたが、要は今、私たちが聞いている音楽、ヒットチャートに出てくる日本の音楽のほぼすべてが持っている構造です。音楽の3要素=メロディ、リズム、ハーモニーと言われ、今の曲はたいていこのすべてを持っていますが、そもそも日本の伝統芸能(に限らず、世界の伝統芸能全般)ではそこまでリズムやハーモニーが重視されないものも多いというか、感覚がないわけではありませんが、「時間が等間隔であること(リズムが正確なこと)」や「和声構造があること」にそこまで力点が置かれていません。リズムは時間を正確に区切るものではなく、その場に合わせて伸縮するものであり、和声よりは独唱や合唱を主とした。一つのメロディ、自由に伸縮する時間(リズム)といったものが多く見られました。たとえば歌舞伎、能などを考えても、そこには役者の肉体的な躍動と、それに合わせた音楽がある。もちろん、基本となる拍やペースはありますが、その場その場で呼吸を合わせてそれらが伸縮する。良し悪しではなく、美学の在り方が違ったのです。音頭にしても、田植え唄にしても、拍子はありますが、それは田植えや踊りのペースに合わせて(本来は)揺れるものでした。

ただ、明治維新以降、それらの伝統邦楽の感覚は「時代遅れ」とされ、急速に西洋音楽に舵を切っていきます。唯一の官立音楽学校であった東京音学校も西洋音楽のみを教科とし、急激に「リズムの正確さと西洋的な和声構造を持ったもの(のみ)が音楽である」という価値観へと変化していきます。

一つ、例を出しましょう。先ほど「日本では純音楽(鑑賞音楽)はほとんどなかった」と書きましたが、その中の数少ない例外が宮廷音楽、室内楽であった筝曲や雅楽です。伝統芸能の中では西洋音楽への取り組み、伝統との融合が速かったのが筝曲で、その第一人者が宮城道雄です。宮城道雄の代表作の一つ、「春の海」を聴いてください。こちらは大正が終わり昭和に入ってからの曲で、昭和4年(1929年)に作曲された曲。従来の筝曲の内容にとどまらず、西洋音楽的な構成を取り入れた曲です。

よくお正月に流れている曲ですね。今の感覚で聴くと非常に日本的、純邦楽に聞こえるかもしれませんが、実は西洋音楽の影響をかなり取り入れていて、西洋的な和声構造や、一定のリズム感が取り入れられています。

その変化を知るために、同じ宮代道雄の処女作「水の変態 」と聞き比べてみてください。 明治42年(1909年)の作品で、ほとんど西洋音楽の影響を受けていません。つまり、リズムは一定の時間を区切って反復しよう、という意図がないし、ハーモニーも西洋的な和声感覚はありません。明治新曲(ツルシャンもの)と呼ばれる形式に近く、明治以降の新しい筝曲の在り方を模索する曲であり、「歌詞の持つ意味や気分を表現しようとした」という点では筝曲としては画期的な曲(江戸時代の筝曲はもっと形式的だった)でしたが、西洋音楽の影響はまだほとんどありません。

他にも長唄、地唄などいろいろなものがありますが、今のポップス/ロックに慣れた耳で聴くと西洋音楽に触れる前の純邦楽は、かなりわかりづらく感じるものが多いでしょう。これは逆に、当時の日本人にとっても洋楽はそのように感じただろうことが伺えます。まったく新規の、どう聞いていいのか、どのように接すればよいのか分からない音楽であった。それが時代を経るにつれて洋楽の感覚が根付き、むしろ今では洋楽の感覚が入っていない純邦楽に触れる機会がないためこうした音像に違和感を感じるようになっています。

現代の大衆音楽の源流

現代のわれわれが感じる「日本らしい音楽」をたどるため、明治維新(第6期)以降、大正時代を見てみましょう。それ以前は録音技術がないので音が残っていないので、音源としてたどれる限界となります。あと、今回は「大衆音楽(ポップスやロック)」に話をつなげたいので、筝曲や雅楽などの純邦楽・近世邦楽ではなく、現代ポップスに繋がるような歌モノ(いわゆる俗謡、俗曲)をここからは見ていきましょう。

大正期の「大ヒット曲」と言われるのが、女優であった松井須磨子が吹き込んだ「カチューシャの唄」です。1914年(大正3年)に発表され、劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として舞台で歌われるとともに、『復活唱歌』の題名で松井の歌唱によるレコードが発売されたのが本作。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となったそうです。

無伴奏による独唱で、リズムも揺れています。音楽的には従来の日本の民謡と西洋音楽のリード(歌曲)形式を混ぜたもので、古今東西の民謡によくあるペンタトニック(5音)音階。いわゆるヨナ抜き音階(ド、レ、ミ、ソ、ラ)で作られています。西洋音楽の影響は受けているものの、リズムとハーモニーの感覚はまだ薄く、過渡期の作品。

だいぶ今の感覚の「ポップス」からは離れていますが、とはいえ大衆歌としての原点を感じます。

続いて、もう少し今の音に近い、リズムとハーモニーが入ったものを聴いてみましょう。1919年(大正8年)に発表された「平和節」です。通称「パイノパイノパイ」。こちらは元曲があり、ヘンリー・クレイ・ワーク作曲の「ジョージア行進曲」(Marching Through Georgia)のメロディに日本語の歌詞をつけたものです。この曲は歌詞付の軍歌(ますらたけを)になったり、救世軍(キリスト教の慈善団体)が街宣活動で演奏するなど、当時の日本で知名度が高いメロディでした。これに演歌師の添田知道(添田さつき)が歌詞をつけてヒットしたのが「パイノパイノパイ」。

この曲に「第一次世界大戦が終わって平和が来た」ということで、新しい歌詞をつけて発表されたのが「平和節」です。この当時の「演歌」というのは1960年代以降の歌謡曲ではなく、演説歌のこと。社会風刺が効いた歌詞を載せることが流行でした。この平和節はそうしたものの一つ。

・京阪神・中京・吉原の風俗
・第一次世界大戦の戦後処理のためパリ講和会議に全権として参加した元老・西園寺公望が愛妾や料亭・灘萬の店主を伴ったことが大新聞に取り上げられたこと
・会議の結果としてドイツが所有していた山東省の権益や南洋諸島の委任統治権を得た戦勝気分
・3番の「市長のいうことよくきいて豆粕食うこと痩せること」とは、当時米価が高騰し米を買えなくなっていた市民に対し、東京市長田尻稲次郎は相場師を取り締まるどころか代用食をあてがうことを暗愚だとする政治批判
※時節が第一次世界大戦後のインフレ期にあり、「平和節」にあるように物価が猛烈に高騰したことから「倍の倍の倍」というもじりもあった。
・4番に出てくる「ボロ電車」とは当時唯一の交通機関であった東京市電を冷やかしたもの

 出典:wiki

などが歌詞に盛り込まれています。こちらを聴くと、きちんと一定のリズムとハーモニー(楽器の演奏)があり、今の大衆音楽に近づいています※2。

邦楽、「日本的なもの」は他にもいろいろなスタイルがありますが、本記事ではこの2曲を「日本的なもの」の例示としたいと思います。どちらも「純邦楽」とは違い、西洋音楽の影響を受けています(後者はそもそも西洋のメロディ)。ただ、今の我々が聴いたら十分に「日本的」と感じるでしょう。明治以降、洋楽(欧州音楽)の影響を取り入れて変化した俗謡、俗曲が、現代日本のポップス/ロックに現れる「日本らしさ」の元型である、と僕は思っています。江戸時代以前の、和声もリズム感覚も違う純邦楽は、少なくとも今のポップス/ロックの中で聴くことはほとんどありません。

「日本らしさ」が現れたポップス/ロック

さて、前項までで「日本らしさ」を定義しましたが、そうした視点で「日本らしさ」を感じるポップス/ロックを紹介しましょう。洋楽と融合しつつ、日本の独自性をどう取り入れているか。最初に分類した「第八期 民族音楽隆興時代(第二次大戦以降)」の時代の楽曲群です。

まず1曲目は大瀧詠一の「ナイアガラ音頭」を。大瀧詠一は日本語ロックの先駆者とされる”はっぴぃえんど”の一員で、山下達郎や大貫妙子を世に出したナイアガラレコードの総帥。また、古今東西のポップスに通じた博覧強記の音楽マニアであり、「日本古来の伝統音楽」と洋楽、ポップスの融合をいち早く試したアーティストでした。1977年のライブ映像から。大瀧詠一が非常に機嫌が良いのが印象的。完璧主義者で気難しい一面もあったと言われる大瀧氏ですが、音頭だとノリノリです。また、音頭ではありますが洋楽的な要素も取り込まれていて、リズムも音頭の典型的なリズムといえばそうですが、「ドドン、ド、ドン」ではなく「ド、ドドン」とちょっとファンキーなタメが入るなど洗練させています。

同じく大瀧詠一の音頭路線だとレッツオンドアゲンも傑作です。同名のアルバム「Let's Ondo Again(1978)」に収録。こちらは残念ながら映像がなかったのですが、チャビー・チェッカーのヒット曲「Let's Twist Again」を音頭調にカバーして、各コーラスの最後に「ナイアガラ音頭」の英訳(直訳。英文としては不正確)をつなげた楽曲。洋楽的、モータウンやオールディーズ的な洋楽ポップスの要素、オーケストレーションからサーフミュージックまで、日本に輸入された洋楽の見本市のようなめくるめく音像と音頭が融合した素晴らしい楽曲になっています。

こちらもオリジナルは上のナイアガラ音頭と同じく布谷文夫の唄ですが、歌謡曲界の大御所、細川たかしがカバーしたバージョン(1992)をどうぞ。

大瀧詠一はナイアガラレコード時代は残念ながら商業的成功は得られず(1981年の「ロングバケーション」が大ヒットし、時の人となりますが)、音頭とポップス、ロックの融合はマニア向けの徒花で終わってしまうかと思いきや、「ナイアガラ音頭」に衝撃を受けたビクターのプロデューサー川原 伸司によって、「ビートルズを音頭風にカバーする」という企画が実現化します。もともと、アイデア自体はあったそうですがナイアガラ音頭に「先を越された!」と思った川原は、先を越した張本人である大瀧詠一にプロデュースを依頼。民謡歌手で本職の音頭歌手である金沢明子が歌唱したのが「イエローサブマリン音頭」です。これを聴いたポールマッカートニーが絶賛したというエピソードも語られていますが、真偽はどうなんでしょうね。でも、こういう風に「違った国の伝統音楽で、真正面からカバーしてもらう」というのはアーティスト冥利に尽きる気もします。やはり伝統音楽には歴史の重みと深みがあるし、そのスタイルで生まれ変わった自作曲というのは新鮮に聞こえてうれしかったことでしょう。1982年、TVで披露されたイエローサブマリン音頭がこちら。

こうした「音頭とポップスの融合」を1970年代後半~1980年代に行ったのが大瀧詠一で、それ以降音頭的、民謡的なものがJ-POPシーンに根付くことになります。

1984年、一世風靡セピアが「前略、道の上より」でデビュー。音頭というか祭囃子とストリートダンスを組み合わせた映像で衝撃を与えます。このグループからは哀川翔、柳葉敏郎などがスターになっていきます。もともとは路上パフォーマンスを行っていた劇団一世風靡からデビューしたユニット。竹の子族が生み出した時代の寵児です。振り返ってみるとストリートカルチャーを日本全国に広めた先駆者とも言えるユニットでした。

そして音頭(民謡)×ストリートダンスの流れを汲んでリリースされたのがこの曲。KAJA&Jamminによる「ありがたや節」の1985年のカバーバージョン。ありがたや節自体は1960年に歌手・俳優の守屋浩がリリースしてヒットした曲。もともとは名古屋あたりの俗謡で、古くからあったメロディとされていますが作曲者不詳です。それをレゲエ調にカバーしたのがこのバージョン。レゲエと音頭は親和性が高いというか、日本人の盆踊りとレゲエには共通するゆるさと踊りやすさがあります。

音頭的な感覚、日本人が本能的に踊りやすいリズムをうまく取り入れて、より洗練させたビート、テクノサウンドにしたのが電気グルーヴでした。四つ打ちはプリミティブなビートなのであらゆるダンスミュージックに通じる力強さがありますが、その中でもこの曲はどこか盆踊り、民謡的な響きがあります。ボーカルのメロディもどこか日本の民謡的。ピエール滝がチンドン屋的なにぎやかしを担っているのも伝統芸を感じます。電気グルーヴで「N.O.(1994)」。

こうした盆踊り、音頭系とポップスの融合で2019年、大ヒットを飛ばしたのは米津幻師の「パプリカ」でしょう。ヨナ抜き音階をうまく使い、音頭的なリズムとビートを使ったこの曲。実際に盆踊りでも踊られているようです。音頭とポップスの融合の現時点での一つの完成系であり、海外の音楽好きから「日本らしさのあるポップスを聞かせて」と言われたら、今ならレコメンドしたい1曲。


さて、音頭をポップスに取り入れていった映像を見てきましたが、それ以前にもジャジーだったりラテン音楽と日本的なものを融合させる動きがありました。たとえば美空ひばりの「お祭りマンボ(1952年)」。音頭のリズムをポップスに取り入れるのではなく、違うリズムに音頭、民謡を載せてしまう、という試みです。より古い時代なので、音頭や民謡(いわゆる歌謡曲)のメロディはまだまだ強く、むしろ主流のメロディであったところに西洋渡来のビート、アレンジを加えて洗練させる試みがありました。1977年のライブ映像をどうぞ。途中、さりげなく入る美空ひばりのシャウトがかなり強烈でちょっとびっくりします。伝説の歌唱力。

また、ドリフのズンドコ節もメロディは歌謡曲、民謡ですが、ジャジーでかっこいいアレンジです。1969年リリースで、この映像はおそらく1970年代のどこかでしょう。この当時のバックバンドはこういう音楽を演奏させるとうまいですね。生演奏のダンスホールがまだいくつも残っていた時代でしょうか(1970年代以降、レコードをかけるディスコがだんだん増えていき、生演奏のダンスホールは減少していきます)。

また、インスト、エレキサウンドでも民謡、伝統音楽を取り入れる動きがありました。エレキブーム自体、時代の徒花的なムーブメントでしたがその後のロックサウンド、バンドサウンドに与えた影響はかなり大きいし、エレキブームによって日本のギタリスト人口が爆発的に増加し、その後のフォーク、ニューミュージック、バンドブームに繋がっていきます。そうしたエレキブームの日本の第一人者、寺内タケシとブルージーンズによる津軽じょんがら節をどうぞ。

この冒頭のMCで「国籍はっきりして世界と仲良くしたい、世界中48か国で胸を張って演奏してきました」と語っています。世界で活動する、世界を見るアーティストであればあるほど、「日本らしさ」を客観視する。海外で活躍するアーティストがそのまま日本の伝統音楽の影響を表に出すわけではありませんが、「日本らしさ=自分にしか出せない音」を探そうとする傾向が強まるようにも思います。

これ、面白いのが、エレキサウンドの大御所であるベンチャーズも一時期日本の歌謡曲を作曲やカバーしていて、同じく日本の民謡をベースにしているんですが、なぜかビートが違うんですよね。スタジオ盤よりもライブだとその差がくっきり出ます。寺内タケシバンドの方が、どこか音頭的というか日本的な、日本人的にはなじみのあるリズム感がある。ベンチャーズの民謡も聞いてみてください。

メロディは日本的なのですが、やはりリズム感が違いますよね。ベンチャーズはどこまで行ってもベンチャーズというか、日本的なビート感とは違う。音階とか伝統楽器の有無のようなわかりやすい特徴ではなく、ビート感とか音響の感じとか、なかなか明確に言語化しづらい感覚が「日本的」なものなのかもしれません。


もう一つ、ロックと伝統音楽の融合ということで重要な役割を果たしたのが沖縄です。沖縄は米軍基地もあり、本場のロックサンド、ビートが根付いています。米軍基地の中で米兵に向けて演奏することで収入を得るバンドが多かったので、そうしたスキルが身についた。独自の音楽シーンがあります。その中で喜納昌吉は沖縄、琉球伝統音楽とロックサウンドの融合を行いました。1972年にリリースされ、ウチナーポップ(現代的な琉球ポップス)の先駆けとされる曲。ライブ映像をどうぞ。沖縄のカチャーシー(高速の祭囃子、手をひらひらさせて踊る)は、ラテン音楽のスカに近いものがありますね。


最後に、純邦楽界からポップス/ロックに殴り込んだ和楽器バンドを。メンバーはそれぞれ詩吟、尺八、筝、和太鼓、津軽三味線を専門的に学んでおり、師範代レベルの伝統芸能の伝承者たち。ロック/ポップス畑のミュージシャンが要素として伝統音楽を取り入れたのではなく、伝統音楽側の奏者がポップフィールドで活躍する例は日本ではまだ珍しいと思います。先駆者たるバンド。もともとボカロ曲だった「千本桜」を伝統楽器を用いて見事にカバーして見せた曲。国内だけでなく世界に衝撃を与え、YouTubeでは再生回数1.4億回を超えています。


こうした音楽に出会うと、日本は面白いなぁと思いますね。皆さんそれぞれ「日本らしさ」の感じ方は違うと思いますが、今回は僕の感じる音楽における「日本らしさ」を、日本の音楽史や原点にさかのぼって考えてみました。ときどき「このアルバムからは日本らしさを感じる」と書いたりすることがありますが、そういうときに想起している「日本らしさ」というのは、たとえばこんな楽曲たちです。

それでは良いミュージックライフを。

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※1 日本音楽の歴史については、下記の本に依っています。

刊行が昭和40年(1965年)で、日本芸大、武蔵野音大の教授を歴任し、当時文化財専門審議委員だった吉川英史氏による著作。幾分古い本なので今の通説とは違っている部分があるのかもしれませんが、日本音楽の位置づけ等については納得感がある論考です。

※2 平和節について
このバージョンは添田知道(さつき)の原曲ではなく土取利行のカバーバージョン、原曲は見つからず。もし原曲を知っている方がいれば教えてください。この曲に限らず添田さつきの歌唱がYouTubeでは見つからず。

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