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花束みたいな恋をした

映画を見てからだいぶ日が経ってしまったのだが、「花束みたいな恋をした」という映画について色々語りたくなってしまった。と言うのも、なんか目にする映画評が、なんか皆ひねくれた目線で見てるんだもの〜。

この映画では、いわゆるサブカルチャーと呼ばれるであろう作家、お笑い芸人、アーティストの固有名詞が沢山出てくるから、そう言うのに詳しい人たちが、「麦も絹も、ニワカでしょwwww」みたいに言いたくなるのは分かる。でも、そんなこと言わなくてもいいジャーン!というのが、僕の言いたいことです!皆、youtubeの考察動画見て、ひねくれてしまったんでしょう。

ちなみに、僕も映画を見終わった後、即色んな人の考察などを見ました。特に「コンテンツ全部見東大生」の考察は色々触れられていて面白かったです。

解説を見たら、「花束みたいな恋をした」を少し斜めから見るようになりました(褒め言葉)。

その後、twitterとかで色んな考察や感想文を見つけて、皆サブカルについて語っていて、特にサブカルワナビー(サブカル系になりたいマジョリティーを指す)を少しディスっていて少し悲しい気持ちになりました。僕は純粋に「花束みたいな恋をした」を見終わった後に、じんわりと、温かい気持ちになったというのに、皆さ、映画で出てくる、天竺鼠がどうとかさ、川端康成の言葉を引用しているとかさ、別にそんなの、この映画を語る上では、2%(2%は流石に盛っているか)くらいの意味しかないのに、そこに囚われていて、カルチャーを中心に語ったら、皆、この映画をそう言う視点から見てしまうじゃん!と思っている訳です。

別に、今村夏子を好きだって語ったっていいじゃん。カラオケできのこ帝国歌っていいじゃん。ワンオクとか前田裕二を好きだっていいじゃん。

POP LIFE: The Podcastで宇野さんが、この映画の情報を色々提供してくれていたのですが、脚本家の坂元さんはこの映画で出している固有名詞に大して思い入れはないとのこと。きっと、サブカルワナビーな若者たちが好きであろうものを色々チョイスして使ってくれたんでしょう。

この映画で、坂本さんがやりたかったことって、普通の若者の普通の恋愛を描きたかったということで、別に麦と絹はみんなが知らないものを自分は好きであると言うマウンティングを取りたがる嫌なやつを書きたかった訳ではないと思う。若い頃なんて特に、他の誰とも違う自分だけのアイデンティティを築きたくなるものじゃん。「僕はこれ知っています」と言うだけで、「すごい、詳しいね」とか、「趣味いいね」とか言われたいじゃん。みんな、心の底で思っていることを、ただ若さ故にビンビンに出てしまっているだけでしょう。可愛いね。

あと、絹が、本当に自分の好きなラーメンについて麦に語っていなかったのも、意味深ではあるけれど、あれもちゃんとお互いの核の部分に、お互い入ることができていなかったという意味だろうと思う。別にそれを隠していた訳でも、お互い薄い表面の部分でしか共通点はなかったというのも違うと思う。大人になると、相手の人がどんな人であるかを、好きな作家や音楽だけでは判断しない。その人のもっと根底にある価値観とか、恋愛変遷とか、もっと色々と観察してから、結婚できる相手か見極めてから、恋愛関係に発展するようになると思う。だけど、若い人の恋愛というのは、もっと自由だ。好きな物が、一致するだけで、「あ、この人、好き」となるのだ。浅はかな奴らだと思う人は、過去にそういう恋愛をして失敗したのか、硬派な方であろう。僕みたいな、普通の大学生活を送って来た人間は、趣味の合う人がいるだけで、「好きな音楽の合う〇〇さんだ!」みたいに意識してしまっていたし、好きな人と好きな物が一致するだけで、なんか嬉しくなってしまったものである。
僕が思うに2人が別れた原因は、お互いの相性が悪かった訳ではないと思う。ただ純粋に若かったのだ。だから、2人は相手のことを完全に記憶から消し去ることができていなくて、麦はgoogle mapで2人で住んでた付近を検索しちゃうし、絹は相手のことを思い出してしまうのだ。別れるまでに、いくつかターニングポイントが確実にあって、2人の取る行動によっては、別れるという選択を取らなくても済んだのだ。だからこそ、2人は過去の自分を振り返ってしまう。あの時、こうしていれば別れずに今も一緒に居たのかな。そう思える恋をできたというのは、とても恵まれていることだと思う。結果として、2人は別れるということになったのだが、過去を思い出して、懐かしくもあり、ちょっと苦くもあり、そういうものとして残っているんだろう。そういうストーリーだからこそ、カップルは今の恋人ともこうなるのかと妄想したり、もう少し年上の世代だと、あんな恋もあったなと思い出したり、もしくはこんな恋をしたかったなとなるのであろう。よくネットでみる物は、坂本裕二脚本の皮肉さを謳っているが、別にそれが主題ではない。リアルを追求したら、たまたまそうなっただけだと僕は思っている。

要はこの映画において、出てくる固有名詞は、特に意味を持たないと思う。2人の若さを表現したり、固有名詞によって、見ている人を映画に引きつけるための役割。自分は静岡出身なので、さわやかが映画に出てきたときに、すごい嬉しくなったし、絶対さわやかに行ってあの行列に恋人と驚いた人もいると思う。そうやって、自分の経験や恋愛と重ね合わせてしまう。そうなってしまったら、坂本裕二の術中に見事にハマってしまっているのだ。(ちなみに、カルテットの唐揚げにレモンをかける論争とか、すごい好き)

と長文になってしまったが、これだけ誰かと語り合いたくなる作品になっているというのは、映画として大成功だと思う。花束みたいな恋とは?とか、絶対にみんな語り合いたくなるもん。だからこそ、斜めから、この映画を見ようとせずに、自分の思うままに映画を解釈して欲しいなと思います。


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