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恒久平和主義の経済的基礎

 日本が自動車や家電製品を主要産業としている限り、日本が侵略国になることはあり得ない。日本の資本家にとって侵略戦争は一文の得にもならないからだ。なぜならそうした産業のお得意様は個人であって、国家や軍隊ではないからだ。戦前は重工業や鉄道が主要産業であり、国家や軍隊が顧客であったから、満州鉄道や製鉄所などの植民地経営が必要となり侵略的になる必然性があった。
 戦後、植民地解放が進んだのは人道上の理由というよりは、西側諸国における顧客志向の産業にとって植民地経営が割に合わなくなったからに過ぎない。むしろ独立させて所得を向上させた方が市場拡大に繋がるからだ。
 こうしてみると、なぜ天然ガス・石油・稀少鉱物などの産出国について独裁国家が多く、侵略的であるかの説明がつく。なぜならそうした一次産業の顧客は国家や大企業であり、末端顧客のニーズや個人所得などを考慮する必要がないからだ。
 その点、中国は微妙だ。確かに中国の主要産業は家電製品などの顧客志向の産業のようでもある。私見では、一帯一路とは顧客志向の産業が未成熟な国家がとる帝国主義政策の最終形態だと思う。もし成熟していれば、日本のように自由貿易で充分のはずであり、相手国に影響力を行使する必要はまったくないはずだ。つまり製品品質や商品開発力が未成熟で西側諸国との競争力に自信のない場合、国家の影響力による市場の囲い込みが必要となるのである。
 だが、顧客志向の産業がバラ色というわけでもない。
 まずそうした産業は相手国の所得向上が必要になる。だから個人所得の高い国家間でしか成り立たない。逆に個人所得の低い国では、市場が発展しないから一次産業に特化せざるを得ないことになり、いわば西側諸国にとっての原料調達国となる。
 つまり戦前の産業が植民地を必要としたように、戦後の顧客志向型の産業は南北格差を必要とするのである。
 米国は既に主要産業が情報産業になっているが、これは情報によって流通小売業を傘下に収めるものであり、顧客志向型産業それ自体を囲い込み統制するものである。それは顧客志向型産業の効率と利便性を究極まで推し進めるものであり、南北格差は強まりこそすれ弱まることはない。
 だから日本による侵略戦争はあり得ないとしても、集団的自衛権によって戦争に巻き込まれる危険性は高まるであろう。
 よって私見では、我が国の防衛にとっては軍備増強よりも発展途上国への経済支援の方が有効と考える。軍事力に対抗するに軍事力をもってするのは愚策の極みである。むしろ問題が生じる原因に対処すべきであろう。
 国民の生命を守るための予算増額というが、国民を守るのは財務省の役人ではない。自衛隊員という国民の一部が自らの生命を犠牲にして他の国民を守るのである。国防は予算を増額すれば済むという問題ではない。
 自衛隊の憲法明記は平和ボケした国内だけで考えるとあまり大きな問題ではないと感じられるかもしれないが、諸外国からみれば日本の再軍備宣言に他ならない。いかなる戦争も自衛戦争だからだ。ナチスドイツの旧ソ連侵略もユダヤ・ボリシェヴィキに対する自衛戦争だった。
 ちなみに同じ敗戦国であるドイツは1955年に早々と再軍備したのだが、日本だけが一切の戦力を永久に放棄すると憲法に規定したのは、最後まで戦って大負けに負けたからではない。負け方という点では、国家を分断されたドイツの方が深刻である。むしろ日本は国体を護持するため分断される瀬戸際で踏みとどまったと言えよう。
 当時の国際世論は天皇の戦争責任を追及していたが、マッカーサーがこれをかわすために戦力の永久放棄を憲法案に導入したという経緯がある。
 つまり軍国主義の根絶と戦力の永久放棄はセットなのである。これにより周辺国を含め国際世論も免責に同意したのである。天皇と軍国主義の結合を阻止するには、どちらか一方を消去しなければならないのだから、天皇制を存続させるのであれば、戦力放棄が必要なのだ。これはロジックであって、押しつけではない。ロジックだからこそ普遍的に機能し、世界に対して天皇制存続を是認させることができたのだ。
 現憲法を押しつけとする見解は、国内の制定経緯のみに視野が狭く限定されており、全体のロジックが分かっていない。
 当然ながら憲法9条を改正すれば、約束が反故になったのだから、国際世論は硬化するであろう。最高主権者が自殺して戦後再軍備したドイツと、天皇制が存続して戦力放棄した日本とでは事情が鏡のように正反対で全く異なるのである。
 憲法学者は指摘しないが、私見では憲法1条の象徴天皇制と9条の戦力放棄はロジックとして密接な関係があると思う。一方を改正すれば必然的に他方も問題となる。
 天皇の宸襟を安んじ奉るためにも恒久平和主義が必要なのであり、戦後の歴代天皇陛下が平和を強調せたまふ由縁でもある。マスコミによる通称である「人間宣言」という詔書においても「官民挙ゲテ平和主義ニ徹スベシ」と布告されているのだから、現憲法の恒久平和主義を無視する者は天皇の御意に背く者である。
 戦前の国際連盟脱退や三国同盟締結などをみると、国際情勢がヤバくなればなるほど墓穴を掘るような政策をとっていたわけだが、憲法改正についても同様の危惧を覚える。売り言葉に買い言葉のようなもので、平和を誓ったはずの日本が再軍備するのであれば、もう日本に対し道義的に遠慮する必要がなくなるのである。なにも今のこの時期にわざわざ火に油を注ぐようなマネをする必要はないだろう。喜ぶのは財政負担が軽くなる米国だけである。
 前の大戦を踏まえる限り、戦争について適切な政策は何もない。 
 政治家は何もせず、現憲法を盾にとって専守防衛に徹するのが最上策である。日本の名誉は専守防衛の大義を守ることにある。この大義を失えば、いかなる自主性もなく恐怖に怯えるだけの従属国家になりさがるであろう。
 ちなみに防衛省のwebサイトによると、専守防衛とは「相手から武力による攻撃を受けた時にはじめて防衛力をもちい」るとして合憲性を説明されているが、これは立派なことであり、平和を愛する一日本人としてそのとおりに遂行してもらいたいものである。それでこそ世界に唯一無比の自衛隊として誇りに思う。
 しかし現在では「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、日本国民の権利や生命が根底から覆される明白な危険がある」場合、武力行使できると閣議決定されている。
 つまり我が国への攻撃がなくても「明白な危険がある」と政府が判断すれば武力行使できるのである。
 これは米国の違憲審査基準における「明白かつ現在の危険」の用語を踏襲したものと思われる。おそらくこれを起案した御用学者か専門家が集団的自衛権の違憲性を意識しつつその阻却事由として用いたものと推測される。
 専守防衛の大義も骨抜きにされつつあるようだ、ってか、もうなくなっている。集団的自衛権の閣議決定と予算増額があれば、名がなくても実をとっているのだから、別に憲法改正など不要であろう。
 だが改正すれば、たとえ総理大臣は自衛隊を統帥すると規定しなくても、指揮権が総理大臣にあるのだから、昔の統帥権干犯ならぬ指揮権干犯ということで、国防予算に口出しする野党議員は黙れと一喝されるかもしれない。そして四文字熟語の呪術性により「国体護持」に代わって「国民保護」の名のもとに総動員されるのである。別に徴兵制などは不要であろう。みんなの国をみんなで守るのは当然だという同調圧力で充分だ。

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