サド狂老人卍

貧困のため好きな文学部に行くことができず、経済学修士しか持っていません。このため仕事の…

サド狂老人卍

貧困のため好きな文学部に行くことができず、経済学修士しか持っていません。このため仕事の傍ら独学で仏語を習得し、原文で読んでいます。現在は定年退職しましたので、念願のサドに没頭しています。

最近の記事

正しいナルシシズム

 間違ったナルシシズムとは、自分がかくかくしかじかの人間と思い込んで、そうした自分を愛することである。本人は自分のことをよく分かったつもりで自分を愛しているのだが、第三者からみるとその自己像が過大評価である場合が多い。美しくもない者が自分を美しいと思い込んだ言動をするのは見ていてイタいものがある。  それが間違っている理由は誰でも少し内省すれば分かることだけど、自分にとって自分が最大の謎であるからだ。例えば鏡や写真などの間接的手段に頼らずに自分の眼を自分の眼で直接見ることはで

    • 神学の利点

       高齢になりそろそろ暇乞いをする年頃になったため信心深くなったわけでもないが、もっと早く神学の利点に気づいていれば良かったと思う。  私のように趣味で哲学書を読んでいると、現代哲学は混迷しているとしか思えない。その点、神学は迷いがない。神は無限だから、神の探究が完了することはありえないのだが、だからといって探究を放棄するのではなく、人間理性の及ぶ限り探究しようとしている。その副産物は広範に及び、現代哲学よりも豊饒である。  なぜなら現代哲学は絶対的明証を重視するあまり霊的次元

      • スピノザの知的愛

         神に対する知的愛 Amor Dei intellectualis は、スピノザ哲学の究極目標であるから、それがいかなる意味の愛なのか、よく考えてみる必要がある。  以前、私はその知的愛は神の自己愛の人間的様態だから、その愛は他者と出会う喜びではなく精神の自己満足に過ぎないとディスったことがあるんだけど、謹んで撤回したい。  神の愛が自己愛である根拠は、エチカ第五部定理35「神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する」Deus se ipsum Amore intellectu

        • 信仰のロジック

           現代人は神を信じてはいないが、存在を信じている。  信じるとは認識内容が無であるにも関わらず意識していることだ。  中世人は神の認識を持っていないが神を現実として意識していた。  同様に現代人は存在が何であるかを知らないが、存在を現実として意識している。  だが違いもある。  それは「信仰」という名が示すとおり、中世人は神について何も知らないにもかかわらず、賛美していたことだ。  現代人は存在について何も知らないから存在を賛美することもない。  つまり無内容な神について中世

        正しいナルシシズム

          ハイデガーと神

           ハイデガーはインタビューでサルトルについてどう思うかと問われ、「無が多すぎる」と応えたそうだが、それなら彼自身、無を一体どう捉えていたのだろうか?  死への先駆、つまり死に臨むことで現存在(人間)を全体として捉えることができる。死を直視しない生き方は人間の全体存在を見失っている。こうした彼の思想には、なるほどと思いつつも疑問を感じてしまう。  なぜなら、そう考えるとまさに死という無が人間存在の本質ということになってしまうからだ。  で、これは死についての常識的な見方に反する

          ハイデガーと神

          スピノザとキリスト教

           スピノザ思想は肉体の復活を説かないのでキリスト教とは一応無関係と思われるんだけど、ドゥルーズが指摘するように実体と様態の関係が、新プラトン主義の流出説に影響されているとしたら、キリスト教の三位一体も同じように影響を受けているわけだから、何らかの類似性があるように思う。  キリスト教の三位一体である「父-子-精霊」は、山田晶の指摘によると新プラトン主義の「一者-理性-魂」の流出説を取り入れているということだ。(「アウグスティヌス講話」第三話 山田晶著)  もっとも新プラトン主

          スピノザとキリスト教

          スピノザと善悪の彼岸

           スピノザについては、ドゥルーズ、福居純、江川隆男の優れた論考を読めば充分だろう。  ただ、それらの論考が最終的にどこへ向かっているのかが、私にはよく分からないんだな。  そこでとりあえず、解説書はさておき、スピノザ自身の最終到達点を確認しておきたい。  あたかも数学の証明内容を詳しく検討する前に、結論を押さえておくようなもんだ。  ところで思想内容の特異性は、その思想家の信じている価値の特異性によって規定されると私は考える。だから、スピノザの最終到達点は、スピノザの信じてい

          スピノザと善悪の彼岸

          サドと聖書

           サド的人物であるリベルタンによる論理は、快楽の根拠を衝撃の大きさに求めている点でワンパターンで単調な説明のように思われるが、サン・フォンが新たに登場すると、それとは異質の論理が展開されるようになる。この人物は来世を信じており、犠牲者の苦痛が来世においても永遠に継続するように、悪魔的神秘家から伝授された秘法を犠牲者に施すのである。  これに対してクレアウィルという女性は聖書を引用して来世が存在しないことを証明している。  この箇所は原文では (Ecclésiaste, cha

          サドの訳文についての一考察

           注意!!! 以下は全年齢対象レーティングです。  ひ弱な魂は踵を返して立ち去ること。  サドの「悪徳の栄え」については邦訳として澁澤龍彦訳と佐藤晴夫訳の二つがあるんだけど、澁澤訳が抄訳であるのに対し、佐藤訳は完全訳であるから原文と照合して読むうえでは佐藤訳の方が参考になるだろう。  ところが佐藤訳は完全訳と唱いながら、ブリザテスタの物語の部分が省略されている。省略されてない部分が完全であるだけに惜しい省略であり、やむなくマイナス・ブリザテスタとして読むしかない、と思って

          サドの訳文についての一考察

          夜のスピノザ

           スピノザは「エチカ」第三部の諸感情の定義において、48個の感情を分類定義してるんだけど、奇妙なことに快感と苦痛が定義されてない。ただ、諸感情の定義三に次のような補足がある。  Cæterum definitiones Hilaritatis, Titillationis, Melancholiæ, & Doloris omitto, quia ad Corpus potissimum referuntur, & non nisi Lætitiæ, aut Tristitiæ

          仁義なき法の哲学

           まあなんじゃな、要するに国家とか法律について、アンタらモノを知らんでよう批判できるな。自然科学を見てみ、あくまで事実に基づいた法則や理論を探求しよるじゃろ。事実と無関係な理論を立ててみい、おまえはアホかと言われるだけや。法の哲学も同じなんで。あくまで現実の国家と実定法が考察の対象なんじゃ。ただ国家や法律は自然と違うて人間が作ったもんや。じゃけえワシも同じ人間ぞ、ワシも既存の国家や法律について自分なりの違う意見をもっちょる、とそう言いたいんじゃろな。共同幻想とかな、世界共和国

          仁義なき法の哲学

          饒舌なサディスト(創作)

           今になってからこんなこと言うのは卑怯なんだけど、初めてのことだし、ちゃんと事前に話しておきたいんだ。ぼくは病気なんだ。あ、早漏じゃないからね、むしろ遅漏なんだ。それも君がぼくの言うとおりにしてくれて絶対に逆らわない約束してくれないとソノ気にならないんだな。エッ、それほど深刻な病気じゃないって言ってくれるの、君って理解があるね。でもその優しさが危険なんだよ。君にとっても、ぼくにとってもね。分かるかい。ぼくはその優しさにつけこんでとんでもない要求をするかもしれないからね。でも君

          饒舌なサディスト(創作)

          排便の哲学とその実践

           排便(本論考では大便とする)それ自体は便意の発生を原因とする自然過程であり、結果として便の排出という自然の目的がある。この目的は精神とは無関係であるが、人が排便を意志するとき、排便は人間精神の目的となり、言わば第二の自然となる。  このため精神の目的としての排便と自然の目的としての排便を本質的に区別し、両者の関係を解明する必要がある。  カント的排便とは、人間精神に自然過程が従うものとして、人間の意志による排便に自然過程の排便を従属させようとするものである。その実践形態とし

          排便の哲学とその実践

          バルトのサド論

           考えてみると現代思想の中でロラン・バルトはイロ物というか、関連出版も相対的に少ない。フーコー・ドゥルーズらの翻訳書・解説書の夥しい量と比べると、ほとんど無視されていると言っても過言ではない。  このことは逆にバルトの孤高を示すものでもある。  バルトに比べると他の文学批評は貧乏臭い。例えばサドを論じるにあたり、よく取り上げられるテーマとして、悪の問題・スピノザ・弁神論・精神分析・フランス革命、等々がある。  クロソウスキーやドゥルーズ、フーコーらはそうした論点を内容豊かに論

          バルトのサド論