夜のスピノザ

 スピノザは「エチカ」第三部の諸感情の定義において、48個の感情を分類定義してるんだけど、奇妙なことに快感と苦痛が定義されてない。ただ、諸感情の定義三に次のような補足がある。
 Cæterum definitiones Hilaritatis, Titillationis, Melancholiæ, & Doloris omitto, quia ad Corpus potissimum referuntur, & non nisi Lætitiæ, aut Tristitiæ sunt Species.
 つまり快活や快感、憂鬱、苦痛を48個の感情の分類体系から除外する理由は、①それらが身体に関係すること、②喜びまたは悲しみの種類にすぎないこと、の二つである。(翻訳を引用しないのは著作権保護のためで衒学趣味ではない。)
 一方でスピノザの定義する諸感情は、思惟属性の様態としての観念なんだな。ずいぶんたくさんの感情を「観念」に詰め込んだものだという気がする。現代人の感覚からすると感情が「観念」であるとは面妖だけど、これはデカルトの影響であって、人間の心的生のすべてが「観念」に含められている。(「デカルトの哲学原理」畠中尚志訳・岩波文庫33頁)
 だけど快感と苦痛が「主として身体に関係」しているので省略するとスピノザが述べているのは奇妙だ。元々、人間精神とは身体についての観念だとスピノザ自身が言ってることだし、諸感情が観念に含まれるのであれば、身体に関係していることを理由に快感と苦痛を感情の定義から省略するのはヘンだ。
 それに快感と苦痛が「喜びもしくは悲しみの種類にすぎない」ことを理由に省略するというのもヘンだ。元々スピノザは48種類の感情が「喜びもしくは悲しみ」の組み合わせであると述べているからね。だからこの省略という別扱いの理由を議論の前面に出して討議してみよう。
 私見では「快活、快感、憂鬱、および苦痛」こそが身体についての観念であり、諸感情は身体観念についての観念ではないかと思う。つまり48種類の諸感情は観念の観念として反省的意識であるのに対し、「快活、快感、憂鬱、および苦痛」は無意識の感情であり、それに「喜びと悲しみ」が伴うと意識された感情になるのだと思う。だからスピノザは意識された48個の感情の分類体系に、それらを含めなかったわけだ。だけど別の箇所でそれらについて言及している。
 この解釈には自信がある。当時はフロイトがいなかったもんだから、無意識という概念もない。ただスピノザは人間だけでなく物体にも「モノについての観念」があると考えていたぐらいだから、当然、無意識も「観念」に含まれる。それが実は人間精神である「身体の観念」なんだな。まさに「モノ」を「身体」に置き換えただけだ。だからスピノザは人間精神を、現在でいう無意識主体と考えていたに違いない。そう考えると、「身体が何をなしうるか人は知らない」という有名な言葉の意味も分かる。意識は「身体の観念」の一部でしかなく、48個の感情は意識されたものとして「身体観念の観念」であり、人間精神全体である無意識に浮かぶ「観念」である。
 それに無意識が「観念」に含まれるのであれば、物体が観念を持つというスピノザの説も、そう抵抗なく受け入れられるというか、もっと別の目で捉えることもできる。机や消しゴムが「観念」を持つことが信じがたいとすれば、それは「モノの観念」を「観念の観念」つまり反省された観念=意識と混同してるからだ。だが無意識はまさに意識と意識以外のモノとを繋いでいるのではないか? スピノザの説によって初めて唯物論的に意識の発生が説明しうる、と私は思う。
 ちなみにフロイトはスピノザを愛読していたというから、無意識を学説として提示するうえで「身体の観念」を念頭においていたに違いない。
 で、「快活、憂鬱」はスピノザの説明では全身的刺激であり、「快感、苦痛」は局部刺激となっている。だから人は「快活、憂鬱」がいくら大きくなっても死には至らない。身体の構成関係が全身において比例的に一様に増大減少するので、身体の本質である構成割合が変化することはないからだ。(第四部定理42)
 これに対し「快感、苦痛」が過剰になると、局部刺激だから身体の構成割合が変化し、人間の本質が失われることになる。(同部定理43)つまり分解して死に至るわけだ。スピノザは快感が悪になりうることを証明しているが、悪とは構成関係を損なうことだから、たとえ快感であっても過剰になると人間の構成関係がアンバランスとなり本質が失われ死に至る。

 局部刺激の過剰が死に至るのは分かりやすいが、全身的刺激とは何か?

 私見では、人や芸術など外部のモノに出会ったときに感じる喜びは快感ではなく、快活を伴っているのだと思う。なぜなら外部のモノと出会って喜びを感じるのは、そのモノと私との関係が、私自身を構成する関係に対応しているがゆえに私の本質力である存在が増大するからである。ただ、その外部のモノとの関係は距離があるため局部ではなく全身的刺激になるのだと思う。これに対し性器の結合や性感帯の接触などは距離がないため局部刺激として快感になる、と私は解する。したがって、好きになった相手と出会って全身的で快活な気分が全くなく、ただ局部刺激のみしか受けないならば自分の構成関係と調和しないので、三回ヌイて付き合うのを考え直した方がいい。性交後に離れた後、全身的一体感という快活な気分が生じない場合も同様である。なぜなら愛する人と共にいる喜びは快感ではなく、自分の本質が増大する快活な気分だからだ。
 逆の場合を考えると、愛する人や大切なモノを失ったときに感じる悲しみに伴うのは局部的苦痛ではなく、全身的刺激としての憂鬱が伴うのだと思う。憂鬱は全身的刺激であるがゆえに、いくら増大しても人間の構成関係の割合は不変であり死に至ることはない。不謹慎ではあるが、たとえ我が子が亡くなっても本人は死なないのである。憂鬱で死ぬことがあるとしたら、全身的刺激である憂鬱を局部刺激として心の苦痛と誤認するからだ。誤認された苦痛から逃れようとして自殺するのである。つまり自殺による苦痛の過剰で死ぬのであり、憂鬱で死ぬのではない。
 例えば「ベニスに死す」のアッシェンバッハはコレラで死んだのであって、旅立つ美少年を失う「傷心」によって死んだのではない。たとえ「傷心」していても防疫すればピンピンしているはずだ。もっとも美少年への未練によってベニス滞在を続けたことが発病の一因だから、美への殉死のように解することもできる。その辺の筋書きは必然性があり、マンの上手なところだ。
 ゆえに「傷心」という言葉は全身的刺激であるはずの憂鬱を局部的刺激である苦痛と誤認させる危険な言葉だ、と私は思う。スピノザのように感情を理性で把握するならば悲しみは絶対に生じない。なぜなら十全な観念は能動性であるゆえに喜びしか生じないからだ。
 「エチカ」第四部定理43は苦痛が善である場合がありうることを証明している。
 どういう場合かというと、スピノザによると快感が過剰になるのを苦痛が防ぐ場合である。昔はこの定理を読んだ時、ダイエットや筋トレの苦痛のことではないかと健全に解釈したんだけど、やっぱり局部刺激だからね。筋肉痛はともかく節制や健康増進は全身に及ぶものだから苦痛や快感としての局部的刺激の増大であるとは考えられない。となると定理43は一体何を語っているのか、気になるところだ。
 ところでスピノザによる「死」の定義は、身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるような状態である。(四定理39備考)
 だから通常考えられている死に限らない。通常考えられている死は身体の分解だから定義どおりだけど、完全に分解しなくても部分的にも「異なった割合」の構成関係をとるようになれば、それは死に該当する。例えば記憶喪失者にとっては、記憶を失う前の自分は死んだことになる、とスピノザは述べている。
 こうした「死」の定義にもとづいて、再度定理43を検討してみよう。すると、局部刺激としての快感の増大が悪になる具体例としては、スピノザの言う二大欲求(食欲と情欲)に照らしてみると、食べ過ぎによる健康障害、ヤリ過ぎによるセックス依存症等の発症が考えられる。これらも度が過ぎると、肥満や局部裂傷などの健康障害が生じる。生物的死に至るほどの重度障害は稀であるとしても、精神障害等を発症すれば、スピノザの定義する「死」に至る。これらは舌、性器及び性感帯の局部刺激による快感が悪になる例だ。
 これで定理の前半は具体的に理解できるが、定理後半のこれを防止するための苦痛が善になるという具体例が思いつかない。例えば節制に伴うのはスピノザの定義によれば全身的であるゆえに憂鬱であって、局部刺激としての苦痛ではないからだ。
 スピノザは快感と苦痛が「精神と身体とに同時に関係する」感情だと述べている(第三部定理11備考)から、この二つの関係を考慮しなければならない。
 私見では「精神に関係する」のは、快感と苦痛が意識に反省されたものとしての喜びと悲しみの感情(=身体観念の観念、つまり意識)を伴う場合であり、「身体に関係する」のは無意識の快感と苦痛(身体の観念)それ自体だと思う。だから私達は快感と苦痛を意識する場合、それを喜びと悲しみが伴うものとして意識するんだけど、無意識の快感と苦痛も複合している。そして快感と苦痛が過剰になると、もはや誰が感じているのか分からなくなり、無意識の快感と苦痛が残るんだな。それが昇天であり失神でもある。そこまでいかなくても快感と苦痛が過剰な場合、非人称化が生じることもある。
 したがってマゾ的快感が増大して失神により無意識の快感へ移行しようとする前に苦痛を加えられると、再び意識されたマゾ的快感に逆戻りすることになる。そのとき、苦痛とともに非人称的快感が人称的快感として再び意識されることになる。それがマゾ的快楽のスピノザ的本質だ、と私は思う。スピノザの定理により苦痛が善になるということは、苦痛が喜びの感情をもたらすということだ。その喜びの感情の正体は、非人称的快感から復帰した人称的快感だ、と私は思う。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?