排便の哲学とその実践
排便(本論考では大便とする)それ自体は便意の発生を原因とする自然過程であり、結果として便の排出という自然の目的がある。この目的は精神とは無関係であるが、人が排便を意志するとき、排便は人間精神の目的となり、言わば第二の自然となる。
このため精神の目的としての排便と自然の目的としての排便を本質的に区別し、両者の関係を解明する必要がある。
カント的排便とは、人間精神に自然過程が従うものとして、人間の意志による排便に自然過程の排便を従属させようとするものである。その実践形態としては無呼吸でリキむという方法になるが、その結果、半時間リキんでも成果が出ないという悲惨な結果を招くこともある。
これに対しヒューム的排便とは、原因と結果の関係を習慣としてみるものであり、人間意志による排便と自然過程の排便が類似性をもって習慣的に結合するとみなすものである。その実践形態としては有呼吸による下腹部の間接的刺激により、意識を便意に寄り添わせ、自然過程としての便意を主体として意識を便意に従属させるものである。
哲学の価値をその実践的有効性に置く限り、ヒューム的排便の方が有効である。カント的排便がしばしば努力の空回りとなるのに対し、ヒューム的排便は必ず何らかの結果を産み出し、効果大なりである。
要するに排便は授かりものであり、人間意志によって左右しうるものではない。このため謙虚に自然過程としての便意に従い、意識を便意に寄り添わせることが肝要である。これは人間意志を放棄することを意味しない。
その実践方法としては、まず右手を天井に向けて息を吐きながらゆっくり下へ降ろす。その間左手は膝にのせておく。これを十回繰り返し、次に左右反転して左手を上に挙げて降ろす。これを十回繰り返すと、潜在的便意を意識することができる。これは自然過程としての便意への挨拶であり、単なる確認であるから、一分以内に遂行する。この挨拶は便意と意識を調和させるものであり、挨拶が欠けると良い結果に繋がらないこともある。両手を組んで同時に上下すると効率的であるが推奨しない。力任せに便意を感じるのではなく、片手の動と片手の静のバランスが肝要である。特に左右反転するときの便意の微妙な変化に意識を集中するとよい。逆にこの動きで何ら便意を感じないとしたら時期尚早として退出した方がよい。
次に両手の手のひらを組んでそのまま口元で前後にシェイクする。そのとき、ゆっくり首を左右に振ると100%便意の増大を感じることができる。両肘は手のひらより上にする。こうすると口元でのシェイクが下腹部に連動し、下腹も前後に動くようになる。(シェイクしながら見れば確認できる。予想以上に下腹部が動いている。)
初回は効果が感じられないかもしれないが、二三回繰り返すと便意が徐々に成長していくのが感じられる。少なくとも便意が消えるなどの後戻りはない。これは意識を便意に寄り添わせ、便意を主体として大きく育てるためである。
三十秒程度で腕が疲れてきたら手を組んだまま下腹まで腕を降ろし、今度は上下にシェイクする。これは育てた便意を直腸へ移動させるものである。
人体は直腸に便が溜まると自然に排便する仕組みになっている。この手続き抜きで無呼吸でリキむのは、あたかも弾倉に弾を込めずに空撃ちするようなものであるから、出るものも出ないであろう。
この二つのシェイクを一セットとして四~五回繰り返せば、必ず自然過程の便意が人間意志を凌駕して、自然目的としての排便を意志によるリキみなしで完遂することができる。
注意すべきは全過程を通じて有呼吸を維持することであり、喉の奥で音を立てて排気することにより雑念を消して、意識を便意に従属させることである。
下腹で上下にシェイクするときは、下方向へ力を込めて振り下ろしながら喉で音を立てて息を吐くと効果的である。持続的にリキんで出すのではなく、リズミカルに息を吐きながらせせり出すという感じである。こうするとバナナ便どころか大腸のカタチがそのままとぐろを巻いたような、いまだかつて見たこともない異次元の長さの大便となる。あせって無呼吸でリキむとしばしばチョチョ切れて良い結果にはならない。
問題は調子が良すぎてあまりにも大量の便を放出したとき、直腸の空隙に向けてフン族の大移動が生じることである。このとき二回目に挑むかどうか迷うこともあるが、最初に戻り便意への挨拶を行って、わずかでも便意があれば、「すべての便意は排便に通ず」と念じて再度上記のプロセスを繰り返すとよい。二回目はあまり時間がかからない。
いずれにせよ、急がば回れであり、上記の方法をとれば十分以内に何らかの成果がリキむことなく快適に得られるであろう。
わずかなことではあるが毎日の繰り返しであるから、苦悩なく快適な排便を行うことは、生活の質を高めることになる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?