スピノザとキリスト教

 スピノザ思想は肉体の復活を説かないのでキリスト教とは一応無関係と思われるんだけど、ドゥルーズが指摘するように実体と様態の関係が、新プラトン主義の流出説に影響されているとしたら、キリスト教の三位一体も同じように影響を受けているわけだから、何らかの類似性があるように思う。
 キリスト教の三位一体である「父-子-精霊」は、山田晶の指摘によると新プラトン主義の「一者-理性-魂」の流出説を取り入れているということだ。(「アウグスティヌス講話」第三話 山田晶著)
 もっとも新プラトン主義では下方への流出になる。これに対し西方教会は、父と子の双方から精霊が流出するので下方性という階層はない。
 だが東方教会はあくまで「父⇒子⇒精霊」という順の一直線の下方流出になるので、新プラトン主義にヨリ近い。
 問題は新プラトン主義に近いと何がマズいかなんだな。それはもし流出に上下の階層性を認めると、結局、すべては一者(神)に従属することになり、愛が成り立たなくなるからだ。
 なぜなら愛というのは独立したペルソナの間で生じるのであって、相手が完全に従属していると愛は生じない。つまり父が子を愛し、子が父を愛するためには、双方ともペルソナという独立した位格を必要とするということだ。そして両者の交流が愛という精霊のペルソナになる。
 グノーシスが異端であるのは、流出の階層性による神への従属によって、このペルソナの位格が否定されてしまい、愛が成り立たなくなるからなんだな。
 まあ、これはキリスト教内部の事情であって、キリスト教徒でない私としては、はあ、そうですかと言うしかない。ただ、こうした神学論争は知れば知るほど、哲学においても反復されているような感じがする。同じ人間が考えることだから似ているのは当然だろう。

 そこでスピノザの「エチカ」と三位一体を比較してみると、やはり似ているところがあるようだ。
 例えば神=実体を「父」とすると、様態は「子」になる。
 様態と言えば、なんか生成消滅する儚い存在のようにイメージしてしまうんだけど、それはあくまで人間という有限様態を想定するからだ。
 無限様態はもっとエラいもんで、それはもう神と言ってもいいぐらいのものなんだな。実体及び属性が産出する神であり、無限様態が産出された神である。だから「エチカ」第一部はすべて神についての記述であって、人間は出てこない。そこでいう様態とは無限様態であり、それは産出された神のことである。
 例えばスピノザによると神の無限知性は様態になる。神=実体の思惟属性は知性ではないんだな。神の無限知性とは産出されたものであって、神の思惟属性は知性を産出するものという違いがある。だから無限様態としての無限知性は、脱中心化された神の片割れと言ってもいい。
 こういうところは、神の子がロゴス「神の言」であるという聖書の言葉と同じことを哲学の言葉で反復しているように思う。
 となると実体(父)と様態(子)の間に階層を否定する、つまり実体の優位性を否定するドゥルーズのスピノザ批判は、キリスト教のペルソナ神学による新プラトン主義批判を反復していることになるようだ。
 だけど、ドゥルーズは実体を差異の反復、つまりニーチェの永遠回帰として捉えることで、その階層性を否定するんだけど、それはただ言葉を適用しただけであって、具体的な思考になっていないのではないか。まさに「概念のないところに言葉がやってくる」だ。
 階層性を否定するという狙いならば、むしろスコトゥスのペルソナ神学をスピノザに適用する方が、ヨリ具体的な思考になるように思う。

 その場合、論点となるのは、ペルソナ神学の新プラトン主義批判の目的が「愛」の成立だから、「愛」をどう捉えるかになる。
 スピノザの体系では、「愛」は48種類の感情の一つとなり、心的生のすべてが思惟様態として捉えられている。
 で、思惟様態としての「愛」は、人間の場合は有限だから滅びることになる。だけど形相としての「愛の観念」は、神の本質に含まれて永遠になるというわけだ。
 問題は、この有限で滅びる思惟様態としての「愛」が含んでいるコナトゥス(自己保存衝動)だ。
 スピノザによるとこのコナトゥスもまた神の本質を分有している。だから他の原因に圧倒されない限り、自己を保存しようとするんだな。
 だけど、もしコナトゥスに神に対抗しうる無限の力能がないとしたら、それは神に従属しており愛は成り立たない。だからコナトゥスが神の本質の分有であるとすると、結局、スピノザの言う神への愛とは、神の自己愛の人間精神における反映でしかないわけだ。
 これに対しスコトゥスのペルソナ神学は、人間精神に無限の力を認めている。それは神を否定する力だ。人間精神はこの力能があるからこそ、従属ではなく自立した存在として神を愛することが可能になるわけだ。それはまた同時に、人間精神は神の無限の愛をもってしても救済しえない存在でもありうるわけで、それが地獄落ちになる。だから必ずしも喜ばしいことではない。
 ところがスピノザは、愛のコナトゥスを思惟様態として神の本質分有としているから、結局、神に従属していることになる。無限の力能に支えられた真の愛ではなく、神の自己愛の反映という架空の愛にすぎなくなっている。だからスピノザの神への愛は、第三種の認識による自己満足の喜びなんだな。
 スコトゥスにあってスピノザに欠けているのは、この精霊としての愛だ。 
 それはまたスコトゥスの神がイエスという特異性の神であり、スピノザの神が諸宗教の神に通じる一般性の神であることでもある。
 だから、一部のスピノザ研究者が現代の宗教対立を克服する方策としてスピノザを参照するのは勝手だが、そこには神の特異性への愛が欠けていることに留意すべきであろう。キリスト教徒はイエスを愛しているのであって、諸宗教に通じる一般的な神概念を愛しているのではない。はっきりいって、そんなものは愛ではないのだ。

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