正しいナルシシズム
間違ったナルシシズムとは、自分がかくかくしかじかの人間と思い込んで、そうした自分を愛することである。本人は自分のことをよく分かったつもりで自分を愛しているのだが、第三者からみるとその自己像が過大評価である場合が多い。美しくもない者が自分を美しいと思い込んだ言動をするのは見ていてイタいものがある。
それが間違っている理由は誰でも少し内省すれば分かることだけど、自分にとって自分が最大の謎であるからだ。例えば鏡や写真などの間接的手段に頼らずに自分の眼を自分の眼で直接見ることはできない。自分自身の三次元像を直接見ることはできない。同様に、自己を対象として捉えようとすると、つねにその対象の自己とは別に対象を捉えている自己が共存している。その自己は対象ではないから原理的に不可知なのだ。現象学ではその自己を超越論的主観と名付けている。そう名付けてしまうと分かったような気になるが、超越論的主観が一箇の神秘的な謎であることに変わりはない。
だから賢明な人はナルシシズムを排除しようとする。自己が不可知であることを熟知している人はナルシシズムを自己誤認と看做すからだ。
だがそれは、盥の水とともに赤子を流すようなもので、ナルシスズムを完全に排除してしまうと、他人との共感が乏しくなってしまう。自分に厳しい人は他人にも厳しいからだ。他人とともに喜びをもって生きていくには正しいナルシシズムが必要であろう。
正しいナルシシズムとは、自分自身を未知の他人と看做して自分を愛することである。自己が不可知であることを熟知している人にとっては、それが自分を愛する唯一の方法である。
メタルバンドの Lovebites の曲に glory to the world という名曲があるが、その中に、learning to love yourself という歌詞がある。この yourself が自分自身を意味するのか、あるいは神を意味するのか、私にはよく分からない。love yourself だけを取り出すと、それは自分を愛するという意味になるが、イエスと思われる人物に向かって歌っている文脈からすると神を意味しているようにも思われる。だが、この両義性は両義性のまま受けとめた方が味わい深い。
つまり、クリスチャンならば聖体拝受によってキリストを自己に受け入れているのだから、神を愛することは自己を愛することでもある。だから、この yourself には両義性があるように思われる。
それはまた yourself を未知のまま、ただし最高の価値があるものと信じて愛することでもある。それが It is the greatest love of all と続くのだから、歌詞の内容は高度に一貫していて説得力がある。
自分を他人と看做すならば、自分を愛することは他人を愛する第一歩でもある。アリストテレスの言うように自己の魂がすべてのものと関係するのであるなら、それはすべての他人を愛することに繋がる。
自己評価を過度に厳しくすることは、自己を客観的に評価しうるという別種の思い込みに過ぎない。自分を嫌いだと言う人に問いたいのは、あなたは自分をそれほどよくご存じなのですか、ということだ。正体が分からないという点では自己も他人も結局同じなのだ。むしろ未知であるがゆえに愛するのである。それはまた自分を未知のものへ捧げることでもある。
とはいえ、いくら理屈で分かっていても私は自分を愛することが難しい。そのときは、何か美しいものや素晴らしいものに、言い換えれば何らかの価値のあるものと出会ったときのことを思い出し、感謝とともに自分の人生も満更捨てたものでもなかったと思うようにしている。理屈だけではなく感受することが必要なのだ。賭けてもいいが、可能な限り多くの美を感受した者は自分の生を荘厳かつ神秘に満ちたものとして受けとめるに違いない。
そのとき、愛するということは外観や性格の良さが一つのきっかけであるにせよ、それらは真の原因ではないことに、つまり存在者ではなく存在そのものを愛していることに気づくであろう。現代人は存在と価値を切り離しているが、愛することは存在と価値が一つのものであることを感受することであり、それは存在観の変革でもある。存在と価値が一つにならない限り、結局は外観や性格などの属性によって他人を差別することになる。そうした愛は属性の変化とともに消えてしまうものだ。
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