バルトのサド論

 考えてみると現代思想の中でロラン・バルトはイロ物というか、関連出版も相対的に少ない。フーコー・ドゥルーズらの翻訳書・解説書の夥しい量と比べると、ほとんど無視されていると言っても過言ではない。
 このことは逆にバルトの孤高を示すものでもある。
 バルトに比べると他の文学批評は貧乏臭い。例えばサドを論じるにあたり、よく取り上げられるテーマとして、悪の問題・スピノザ・弁神論・精神分析・フランス革命、等々がある。
 クロソウスキーやドゥルーズ、フーコーらはそうした論点を内容豊かに論じており、時に深遠な相貌を見せたりする。
 例えばフーコーによるとデカルトからラッセルに至る論理は、属性によって主語の存在を証明するものだが、これに対しサドの論理は属性によって非存在を証明するものであり、近代的理性を転覆させるものだと指摘している。 
 そういう類の批評を読むと度肝を抜かれて感心もするし、唸ってしまうのだが、読書によって何かトクしたような気分になるのは貧乏臭い。
 これに比べるとバルトの「サド, フーリエ, ロヨラ」は清々しいほど無意味・無内容である。この本についての論評を私は寡聞にして知らないのだが、これはいかにも論評が困難と感じられる。
 確信犯的に無内容だから要約紹介しづらいが、要するにサディズムとか精神分析とか悪の問題なんかサドのテクストとは何の関係もねえ、と啖呵切ってるんだな。バルトの言うテクストの快楽とは、エクリチュールへの固執なんだ。サドが書いた文を読者が反復することが快楽なのであって、描かれた内容自体に快楽があるわけではない。
 だからこの本はバルトの固執を快楽として呈示したものと言える。それは空間的には、身体の姿勢(ポスチュール)を最小単位として、複合された同時的総体が形象(フィギュール)になる。
 時間的には身体姿勢の継起的変化(相手を取り替える等)がエピソードになる。さらにそれらは情景(セーヌ)、物語(レシ)へ拡大される。
 バルトは精神分析やスピノザなどには一切言及せず、ひたすらサドのエクリチュールそれ自体を分析している。
 いわば他の論者が拷問をイメージとして捉えているのに対し、バルトはサドのエクリチュールそれ自体を切り刻んで拷問していると言えよう。
 テクストの快楽は、そうした文章の切り刻みと分類の形式化によるエクリチュール自体の拷問にあるのであって、文章の描写内容にあるわけではない。
 サドの描写内容をイメージとしてみると、それらの大半は読者の趣味に合わないであろう。なぜなら性倒錯は個人の成長過程を逆向きに退行することだから、個人ごとに異なっているからだ。
(私見では、サドの描写で大勢が繋がった体位には何の感興も生じないんですけど、これはポスチュールの複合としてフィギュールへ拡大していく形式化の儀式として快楽があるのかもしれない。)
 百科全書的に性倒錯の描写が多様であるにも関わらず、古来、サドの作品が退屈と評されてきたのは、要するに読者固有の性倒錯と無縁の部分が多々あるからではないだろうか。
(例えば私などは食糞などのスカトロ描写は本気でやめてよね、と言いたくなるが、他方で強い刺激を受ける部分もある、と正直に言っておこう。)
 おそらくそれがサドを思想として捉えたくなる理由ではないか。スピノザや精神分析の議論と絡めて読めば、退屈に感じられるサドがもっと面白くなるのではないかという期待があるようだ。私見では、そうした試みには快楽が乏しいように感じられる。
 この点で、バルトのサド論はサドを読む快楽について、別の視点を提示するもの、と私は思う。
 それゆえサドに対するアプローチは二通りある。
 一方では心の奥底にサド心を秘めて、情熱の赴くままドイツ語・フランス語だけでなくラテン語まで習得し、アクィナスやスピノザ、フロイト、ラカンを踏まえてサドを論じるという刻苦勉励の道がある。我が国ではこの類のサド論が多い。真面目な人が多いのだ。
 他方ではバルトのように直接サドのテクストに向かう快楽の道がある。我が国にはこの類のサド論は未だ存在しない。もっともフローベールについては蓮實重彦の快楽に満ちた評論がある。
 文学だけでなく哲学も好きな私としてはどちらの道にも関心がある。




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