デリダとハイデガー(その1)

 デリダの「精神について」(港道隆訳)は、抑圧されたものの回帰としてハイデガーの「精神」を捉えている。デリダは序論を難解にするというクセがあって、ツカミが悪いんだけど論述が進むにつれて問題が明確になると、俄然面白くなってくる。
 ハイデガーは「問われているもの」Gefragteを「存在」とした時点で、自らもそれが循環論だって気づいていた。なぜなら問うことFragenが存在を問うGefragteわけであり、しかも問いかけられているものBefragteが現存在であり、それは問うことFragenなんだから、循環論であることは最初から自明なんだ。でもハイデガーが一度も問わなかったのは、まさに問うことFragenの特権的価値というか、なぜ問うことが問われなければならないのかという問いなんだ。デリダはそのことをまず指摘してる。
 結局のところ「存在と時間」はこのFragenを様々に言い換えてるだけなんだな。現存在の存在の意味が「関心」Sorgeだという結論は、問うことFragenの言い換えに過ぎない。
 存在忘却とは問うことFragenへの無-関心だから、まさに現存在の存在意味Sorge(関心)が無だということに帰着する。デリダはこの無関心を三つのタイプに分類してる。
 第一が事物で、無関心とも言えない絶対的無関心だ。事物が自分の存在に無関心ってのは擬人的だからね。
 第二が現存在の積極的な無関心で、これが非本来性に繋がる。そりゃ、自分の存在意味Sorgeに無関心なんだから、存在意味Sorgeとして無だね。
 第三が形而上学における存在忘却。
 で、第二第三の無関心が呼応しあって、精神、魂、意識、人格・・・等々の諸概念が、第一のタイプの無関心に繋がり、精神の事物化、つまり主体の実体的同一性として解釈されることになるわけだ。
 だけどデリダによるとハイデガーは精神という用語を否定したわけじゃない。その使用を回避すべきものとして抑圧したんだな。ハイデガー以前においても精神は事物と区別されている。ただ、その区別の意味について無関心なだけなんだ。その無関心を関心Sorgeへと変えるのが、問うことFragenなんだな。問うことFragenこそが現存在の存在意味Sorgeであり、精神の別名というか、脱構築された「精神」概念というわけだ。
 だから、ハイデガーは精神という用語を避けるべきだと言いつつ、括弧付きの「精神」を使い続けている、とデリダは指摘してる。次のハイデガーの引用なんか、まさに発見というか、デリダの読解の凄さを示すものだ。

  Das Dasein kann vielmehr, weil es »geistig« ist, und nur deshalb in einer Weise räumlich sein, die einem ausgedehnten Körperding wesenhaft unmöglich bleibt. (Sein und Zeit §70)

  まさにハイデガーは「存在と時間」第70節において「現存在は「精神的」であるが故に、しかもその故にのみ・・・空間的でありうる」と書いている。当初は精神という用語の使用を避けるべきだと言ったはずなのに、現存在が「精神的」であると書いている。
 この括弧付きの「精神」 »geistig«が、ハイデガー自身が使用を回避すべきだとした精神なんだから、まさに抑圧されたものの回帰だね。
 デリダのもっと凄いところは、これを現存在の空間性だけでなく、時間性についても同様のことを指摘してることだ。しかもハイデガーのヘーゲル解釈を通じて指摘してるんだ。
 まず、デリダはハイデガーのヘーゲル引用の中の「落ちる」fallenに注目している。つまりヘーゲルは非感性的な精神が感性的な時間の「中へと落ち込んでいく」と言いつつ、その意味については無関心なんだ。
 そしてハイデガーの言う頽落Verfallenが、まさに「落ちる」fallenへの問いへの無関心に相当するんだな。
 つまりヘーゲルの引用「精神が時間の中に落ちる」は、存在忘却の精神、言い換えれば存在意味Sorgeについて無-関心で問うことのない精神が、非本来的時間へ頽落すると読み替えることができるわけだ。つまり非感性的な精神が感性的時間へ落ちることができるのは、どちらも存在意味への問いがなく、無-関心だからだ。
 だけど、「精神」自体が時熟として本来的時間ならば、それは非本来的時間に落ちるfallenことはない。つまり頽落Verfallenではない。
 だからハイデガーは、現存在を時熟としたわけだ。でも、ハイデガーは「精神」を否定しているわけじゃないんだな。現存在の通俗的時間への頽落は、非本来性として現存在の積極的な現象でもある。ただ「落ちる」への問いが欠けているだけだ。それが頽落Verfallenである。
 するとヘーゲルの精神とハイデガーの「精神」を区別するのは、問うことFragenの存否ということになる。
 デリダの言葉への追及による読解は執念としか言いようがないぐらい見事なものだ。
 思うに脱構築という方法は、テクストについて具体的な細部の発見があるからこそ豊かであり、読むことの喜びもある。そうした発見がなく、ただの方法論に終始する議論は不毛である、と私は思う。

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