スピノザ革命
スピノザを革命の書として捉える前に、そもそも革命とは何かを解明しておきたい。そうしないと議論が混乱するだけだ。
ドゥルーズによると68年の「五月革命」は政治革命としては失敗したが、歴史上初めて革命への生成変化としての意義があったという。問題は政治体制の変革ではなく、革命になることだ。
私見では新左翼運動は最終的にノンセクト・ラジカルへ帰着したわけだが、それは政治的であるかぎり消滅せざるをえなかった。しかし哲学的帰結としては生き残り、現在の文化のあり方を大きく規定している。
ハイデガーの重要性を一番最初に理解したのが当時のドイツにおける学生達であったように、ドゥルーズの重要性を理解したのも学生達だ。そうでなければ単なる哲学の専門的研究が広範な文化的影響力をもつことはなかったであろう。
革命への生成変化とは政治体制の変革ではなく、革命の本質を産出することである。それはまた革命を発生論的に定義することであり、革命を原因から捉えることである。そのためにスピノザを参照しなければならない。
したがってスピノザ哲学を政治論的に解釈する試みは、革命を本質ではなく様相として捉える試みでありナンセンスである。
物事を存在レベルと本質レベルに区別すると、革命を存在レベルで捉える限り、つまり政治として捉える限り、革命の本質を産出することはできない。
なぜならスピノザによると様態(つまり人間及びその他のもの)の本質には存在が含まれていないからだ。ある政治体制が別の政治体制に変革されたとしても、それはどちらも同じ様態の変状であって、新たな本質の産出ではない。
このことは存在レベルでは革命が不可能であることを意味する。
スピノザによると本質的定義が発生論的定義になるのは二つに限られている。一つは実体=神であり、実体の本質には存在が含まれているから、実体の本質的定義がそのまま存在の発生論になる。
もう一つは本質それ自体であるが、スピノザは円の本質的定義しか例示していないので分かりにくい。そこで私なりに敷衍して補足する。
「一端が固定し他端が運動する任意の線」という円の定義がなぜ最近原因として円の発生論になるのか? それはコンパスで作図可能だからではない。作図という媒介が必要なら、それは無媒介の最近原因にはならない。ここで議論されているのは具体的に存在する円(そんなものがあるだろうか?)ではない。本質としての円だ。するとスピノザの定義自体は円ではないにも関わらず、円の本質を結果として無媒介に産出していると言える。つまり円の原因になっている。
(中心から等距離の点集合という定義は名目的定義であって、発生論的定義ではない。なぜなら点集合は無媒介で円にならないからだ。それは円の本質ではなく円の特性でしかない。)
物事を原因から捉えることが「第三種の認識」であるとはそういう意味だ。災害や事故の原因を調査するという意味でもなければ、自然科学による原因探求でもない。力学は力の本質を問題とせず、力のあり方しか問題にしていないからだ。
ところで革命と円の定義がどう関係するのか?
スピノザの発生論的定義という方法が実体=神と、本質それ自体の二つにしか適用できないのであれば、身体をもつ人間の具体的問題には適用できないのではないか?
革命が具体的問題である限り、革命の本質を産出することは不可能であろう。確かにそのとおりである。
だが一方でスピノザは「身体の変状の観念」とは区別して、第三種の認識を「身体の本質」レベルの認識としている。したがって本質の産出が可能なのは第三種の認識においてのみである。
ところがスピノザは神=実体については発生論的定義を行っているにもかかわらず、第三種の認識についての発生論的定義が欠けている。
したがってアルチュセールがマルクスの方法をマルクスに適用したように、スピノザの方法をスピノザに適用しなければならない。
つまりスピノザを革命の書として捉えることは、「第三種の認識」とは何であるかを名目的定義により特性として理解するのではなく、発生論的定義により「第三種の認識」それ自体を産出することである、と私は思う。
それが革命である理由は「第三種の認識」が産出されれば、経済問題どころか生死さえも問題ではなくなるからだ。体制の矛盾は希少性の問題とともに消滅し、人類の前史が終わり本史が始まる。
その革命的挑戦に取り組んでいるのが、江川隆男著「スピノザ『エチカ』講義」である。
スピノザ革命は江川隆男とともに始まる。
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