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#126 noteで幸せについて壁打ちしてみたら意外と深くなってしまった

年の瀬を感じながら、幸せとは何か考えるようになりました。
何が自分にとっての幸せなんだろうか。

最近は息子のコウくんの成長を見るのが毎日の楽しみなっています。
ずり這いがちょっとずつ出来るようになったり、発声が言葉っぽくなってきたり
そんな姿を見ながら微笑んでいます。

そんな自分を客観的に見て思うこと、それは
”コウくんが大きくなっていくのを見守るのが自分の幸せなのだろうか?”ということ
これは間違いなく幸せの一部ではあるけれど、僕の幸せの中心なのだろうか?
それって自分の人生を諦めて、息子に依存してしまっていないか?
今、自分の人生を生きているのだろうか?

そんなことを思ってしまいます。

もし、まだコウくんが産まれていなかったら何をしていただろうか?
そんな問いの中に答えがある気がしています。

友達と映像の会社を立ち上げていただろうか?
ピラティスインストラクターとして独立していただろうか?
今の仕事の中でもっと幅広く何かに取り組んでいただろうか?

どれもやりたいことだけれど、全てがどこかぼんやりしている気もします。
それはきっと生きる目的が明確ではないからかもしれません。

誰かの役に立ちたくて今の仕事につきました。
映像も、ピラティスもそれを使って役に立ちたい人がいたから始めたのがきっかけです。

誰かの役に立つというモチベーションが、今は息子の役に立つという方向にベクトルが向かっているのだけなのかもしれません。

”役に立つ”ことで自分が生きている意味を見出したいだけなのかもしれないし
”誰か”が自分の中ではっきりしないだけなのかもしれません

自分が生きている意味を見出すという自己実現の欲求なのか
誰かの役に立つという自己超越の欲求なのか
被る部分もあるような気もするし、違うような気もする
これは自分の中でもはっきりしません。

最終的にたどりつくのは自己超越欲求だと言われています。
でも、今それを考えてもいまいちピンときません。

そんな自己超越欲求について解き明かそうとした人がいます。
Martin博士という人です。

博士によると、一般的に言われる「悟り」「覚醒」「ワンネス」「自己超越」「大我」「ハイヤーセルフ」などという状態は、心理学用語で「persistent non-symbolic experience (PNSE、継続的な非記号の体験)」と呼ばれていて「言語化できないような体験」というようなことを指すようです。

これはどうやら、宗教や宗派によって「通常の自我とは異なる一つ上の意識状態」のことを示す単語や定義が異なるので、PNSEというよく分からない用語に落ち着いたそうです。

多くの「悟り人」の経験談をまとめててみると、マズローの自己超越欲求はまさしくPNSEの一種だそうで、簡単に言うと

①自我という感覚が薄れる
②頭の中の雑念が少なくなる
③雑念が少なくなるので、過去や未来にとらわれなくなる
④雑念にとらわれないので、感情的にならない
⑤基本的にすべてだいじょうぶだという感覚になる

などがその特徴のようです。

これから考えると、まずは自己実現がしたいのかもしれません。
過程の中でコウくんの成長を手助けしている自分に満足し、幸せを感じているのかもしれません。
それが次第に自己超越になっていく人もいれば、それ以外に欲求を求める人がいるのかもしれません。

結局何が幸せなのかわからなかったけれど、誰のために、どう役に立ちたいのか
そんなことを考えながらこれからを生きていこうかなと思っています

あなたの幸せってなんですか?

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