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長男の年長の頃の私。

年長の時に小学校に上がった長女が空手を習いだすことに。先生からの提案もあり長男も体幹が身に着けばいいな程度の感覚で一緒に習いだしました。黙想なんかじっと出来ないのに大丈夫かと不安ばかりでしたが、先生は「そんなことより、挨拶ができる子になるのが大事。型もゆっくりでいい」と仰ってもらったのと夜なので主人の協力が得られるのもあり継続中。

他の市町村は存じませんが、私の町では年中の時に言語通級の先生が公立保育園を訪問して年長の時に週1で専門の言語通級教室に通うシステムがあるんですが、入園前からその事も相談してたのもあり通級決定。年長は毎週言語通級に通い1時間遊ぶような感覚だったので本人も嫌がることなく通ってました。当時パートをしていた私は通級に行きそのまま保育園に送り、パートへ行きまた迎え、帰ったら通級のノートに家での様子を書き…とその1日にすごくストレスを抱え始める。そんな事でストレスってwwwと思う方も少なからずいるでしょう。私もそう思ってました。他人事だった頃は。

この頃は私も自分が発達障害とは知らず生きていたので、自分をただのポンコツだと思っていました。(今もそう思ってますが)言われた仕事は出来るものの、それに没頭してしまい他事をおざなりにしてしまったり、電話はとれども用件をメモしたはいいが相手の名前をニュアンスでしか覚えてなかったりする。淡々と同じ事をする作業ならいいんですが、電話だったり違うお願い事や接客が入ると「お空ってキレイ…」とすべて頭のメモリから消えてしまいます。これに対し、上司は「電話はいいから、これだけやり切って」という指示を出してくれるんですが、お局様はそんなの関係なく「私忙しいの。だからこれとこれを今日帰るまでに」なんて言うんですよ。会社あるあるっていうんですかね。露骨な嫌がらせに夏頃に、糸が切れたように涙流しながら仕事をしていたみたいで上司が病院に行くか仕事変えたほうがいいんじゃないかと提案。とりあえず仕事は急に辞めれないので通院することにしたんですが、しばらく通院した結果「発達障害」による「うつ病」と診断を受けました。

それから冬になり気管支の弱い長女が喘息性気管支炎になってしまいしばらく点滴通いの為1週間半程仕事を休まざるを得なかったんですが、秋に変わった上司も電話では「わかったよ、こっちは何とかなるよ。お大事にね」と言ってくれてたのにも関わらず、出勤してノートを見ると「子どもの体調管理ぐらいしっかりしてください。社会人としての自覚をもって!」とお局様の字でデカデカと。どうやらもう一人いるパートさんもインフルエンザで休んでいたらしくそこそこ忙しかった模様。上司も「子どもが小さいのは分かるけど、言い訳にしないで」と手のひら返し。

いやいやいや、私お局の穴埋めに子ども預けて土曜出勤とかしてしてたやん?それをこんな風に言われるとか心外じゃね?お局のそこそこ大きい子供インフルだったから休むねーって言ってたやん?その穴埋めもしたの私なのに、私ともう一人の人がここまで言われなあかんの?はぁー?

カッとなった私「じゃあ、辞めます。」うつ病になっても迷惑かけまいと吐きそうになりながらも薬をのんで通勤し続けたのにそんな仕打ち。もう居る必要はないと。資格がある以上ここじゃなくてもやっていけるし。泣きながら駐車場まで歩き、車の中でちょっとの間意識飛ばして帰宅したのを今でも忘れない。

死にたい。けれど子どもを残してはいけない。もうすぐ卒園式。まだ文集も仕上げてない。
これ以上迷惑かけたくない。けど逃げたい。辛い。いつもうまくいかない。
死にたい。家族がいなかったらもうむり

この頃書いた日記(毎日ではなく気まぐれで書いていたもの)にはネガティブなことばっかり。人生のどん底なんじゃないかと思ったりもした。

とはいえ、うつ病の要因であった1つの仕事を辞めたのだ。少しは良くなるかもしれない。という期待と、保護者会の役員の総仕上げでもある文集作りの締め切りという新たな障害に心揺さぶられた。

翌月、長男は無事に卒園。私は元々工作が好きだったのと仕事を辞めた時間の空きを利用して卒園式後のセレモニーの準備やフォトブースを作成。絶対無理はしないとの条件のもと工作するつもりが過集中してしまい好きな事になると寝るのを忘れてしまう。セレモニーは成功し、称賛を受けてつかの間の暗黒期脱出。本当につかの間ですぐに低迷期に入ってしまうのである。


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