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ノイズの発見と増幅のプラクティス 「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展評

 現代美術にあって写真や映像を用いた作品はすでに珍しいものではない。それは20世紀に入り起こった多くの前衛的な運動の中で、様々なメディアが試されてきた結果であり、さらに付け加えるならば、近年存在感を増してきている「文化的な、かつ/あるいは民族的な他者の名のもとに闘争(1)」する民族誌家としてのアーティストや、自らのアイデンティティや出自を作品化することによってオルタナティブな事象や過去の歴史を掘り起こそうとするアーティストたちには、写真や映像が記録メディアとして非常に重宝されている。それだけ方法論が多様になり、裾野が広がった写真/映像表現の現状を象徴するかのように、日本の美術界において「平面作品の可能性を探る(2)」企図のもと開催されてきたVOCA展の2020年の授賞作品の半分が、絵画ではなく写真を利用していたことも、時代の変化を感じさせることだったと言えるだろう(その中には以下で取り上げるNerholも含まれている)。

 このように、美術の様々な局面で写真と映像の存在は観察できるものとなっているのだが、その中でも特にメディアの物理的な側面について言及する作家たちを集めたグループ展が、埼玉県立近代美術館で開催された「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」である。80年代前後生れの作家が中心となり、4名と1組で構成された同展は、フィルムという物理的な基盤によらないデジタル写真・映像が氾濫する時代のなかで、いかにしてメディアを物理的なものとして捉え、アプローチをするのかという問いに対する回答となっていた。
 横田大輔は1人で宿泊したラブホテルで撮影されたスナップを、ビニールシートに偶然性も取り入れながらプリントした大型のインスタレーション《Untitled(Room/Reflection)》(2020)を出品した。日常性と切り離されるホテルでの経験を、横田は写真を見る経験と重ね合わせている。なぜなら写真は、私たちの生活とは遠く離れた事象も現前させることができるメディアだからだ。(3)ロラン・バルトが《それは=かつて=あった》(4)というシンプルなフレーズによって集約したのは、そのような写真の二重性に他ならない。だが今回の展示において、横田はこのテーマをさらに展開させ、窓から光が差し込む場所に作品を設置することでラブホテルという閉鎖空間を解放し、イメージそれ自体の抽象性を高めることによって、作品をオブジェとして成立させようと試みるのだ。

横田大輔_Untitled

      横田大輔《Untitled(Room/Reflection)》(2020)

 このような物質性へのアプローチは本展のすべての作家に共通したものではあるが、それが最も直截に現れているのは田中義久と飯田竜太の2名からなるユニット・Nerholである。彼らはまず様々なイメージの漸次的変化を連続写真として撮影し(動画を素材とすることもある)、出力したプリントを重ねる。そしてそれを彫りこんでいくことによって、写真の支持体そのものを変質させ、1枚ごとに確実に刻印されている時間を差異化していくのだ。そんなNerholとは逆向きに、時間から写真や映像の物質性にアプローチしているのが迫鉄平の《#18》(2019)と《氷》(2020)といった映像作品である。迫は映像という時間を伴ったメディアを用いることで、ガラス面の映り込みや水面、ディスプレイといった日常的なイメージは固定的なものではなく、環境に左右されることで物質的な側面をあらわにすることを繰り返し指摘する。プリントされたのぼりは平面であるが、風になびくことによっていかようにも表情を変える。ぺらぺらのイメージだからこその物質性が、ここにおいて顕在化するのだ。

展示風景(Nerhol)

             Nerhol(展示風景)

迫鉄平_氷

              迫鉄平《氷》(2020)

 イメージのフラジャイルな物質性。それに対して最も端的な取り組みを見せるのが滝沢広である。会場に2点出品されていた立体作品「Mood of the Statue」のシリーズは、写真が印刷されたコピー用紙を枠にはめ、そこにコンクリートを流し込むことで固まったその表面におぼろげな像が定着するという作品だ。滝沢はこうした強い負荷をかける方法だけではなく、一方ではより軽やかな手つきでイメージの操作を試みている。それが「The Scene(Berlin)」のシリーズだ。ひとつの平面の中に鏡が写された風景と抽象的な図像の2つが並置されたこの作品のうち、抽象的な図像は風景写真にある鏡の表面をスキャニングしたものである。鏡の表面の傷や付着物のイメージは、理念的には透明な反映を実現しているはずの鏡の神話を解体させる。一方で牧野貴は《cinéma concret》(2016)において、滝沢(あるいは迫)のように私たちの生活圏内から出発しつつも、それを抽象映像作品へと昇華している。木々の揺れや水中といった映像を幾重にも重ねることで具体的な像を結べないよう画面を構築しつつも、その奥底に澱のように沈殿する世界の手ごたえを見え隠れさせる。それは会場に用意された減光フィルターを目の前にかざすことで生まれる3次元的な歪みによって、認知の揺らぎを引き起こし、映像体験そのものとして鑑賞者に迫ってくるのだ。

滝沢広_The Scene(Berlin)1

         滝沢広《The Scene(Berlin)#01》(2020)

 出品作家は以上のように、各々異なった理路に基づき制作を行っているのだが、彼らの仕事には、写真や映像に生じる「ノイズ」がなくてはならない要素となっていることが共通している。(5)そしてそれは、2つの系統として整理できるだろう。ひとつは迫の映像作品にとっての風だったり、滝沢がスキャンする鏡面の傷のような、写真装置が否応なしに記録してしまうノイズであり、もうひとつはNerhol、牧野、横田のようにプリントを行う際、あるいは行った後の操作にノイズを発生させるやり方である。Nerholなら彫りこんだ紙の毛羽立ちとして、牧野なら完全に抽象的な明滅となったおびただしいレイヤー構造として、そして横田なら、その不均一な現像にそれは観察できるものだ。前者は撮影時に、後者は撮影後に混入するノイズだと大別できる。そして特に後者に関しては、デジタル技術の発展に伴って大きく可能性が広がった分野であることも指摘しておきたい。
 迫や滝沢はそのノイズを日常における違和感として表象し、Nerhol、牧野、横田はノイズを増幅させる。どのような方法であれ、彼らは膨大な量が流通するようになった現代における写真や映像のメカニズムに介入し、メディアの物質性を私たちに反省させるのだ。そしてそれは、エドゥアール・マネの仕事が「メディアが透明になった後に、もう一度絵具の『不透明さ』をあらわにする(6)」ものであったのと同じような二重性に基づいている。だからこそ技術の進歩が媒体の存在論的な変容を引き起こしうる写真と映像の周辺では(メディアの固有性に拘泥しない現代のポストメディウム的な状況を横目で意識しながらも)、このような近代的な問いが発せられるのだ。


(1) ハル・フォスター(石岡良治、星野太訳)「民族誌家〔エスノグラファー〕としてのアーティスト」、『表象』5号、月曜社、2011年、127p
(2) 高階秀爾「VOCA展20周年によせて」、上野の森美術館、坂元暁美、大柳幸子編『VOCA 1994ー2013 20周年記録』、「VOCA展」実行委員会、2013年、3p
(3) 「横田大輔インタヴュー 予感に満ちた“暗い部屋”」、IMA ONLINE、2019年、https://imaonline.jp/articles/interview/20190619daisuke-yokota/#page-1(2020年9月22日閲覧)
(4) ロラン・バルト(花輪光訳)『明るい部屋 写真についての覚書』、みすず書房、1985年、94p
(5) ノイズという言葉は、鈴木俊晴がNerhol『Phrase of Everything』(amana、2014)に寄せた評論から連想した。鈴木はここでジャック・アタリ『ノイズ』を引きながら、Nerholの手作業に権力への異議申し立てのニュアンスも含むアタリが言うところの「ノイズ」を見出しているが、本稿におけるノイズとは、より物質的な、写真や映像に生じてしまう、もしくは生じさせることができる現象のことを指している。各作家にアタリ的なノイズとの関連を検討する作業は未着手となってしまったが、興味深い観点である。
(6) gnck「マネからはじめよ」、レビューとレポート 第15号(2020年8月)、2020年、http://gnck.net/text/randr15.htm(2020年9月22日閲覧)

展覧会概要
「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」
会期:2020年6月2日(火)~9月6日(日)
会場:埼玉県立近代美術館

タイトル画像:牧野貴《cinéma concret》(2016)
画像提供:埼玉県立近代美術館


レビューとレポート 第16号(2020年9月)



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