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なぜ、川上弘美の『某』は人生について考えさせるのか?

川上弘美の某を読んだ。外は台風でたいへんそうなので、コーヒーでも飲みながら感想みたいなものをつらつら書こうと思う。

誰も読まないだろうけど、運命的な読者がこの記事をキッカケに書店に駆け込んで「某一丁!」と店員さんに注文する可能性もあると考えた僕は「あらまし」と題して、ざっくりと内容を伝えることにする。

あらまし

物語の主人公は何者にもなれる存在、
謂わば〈某〉である。某は自分の意思や無意識のうちに別の存在に変化することができる。

例えば、あるときは思春期まっさかりの男子学生、あるときは海外に住む女性。またあるときは産まれたばかりの小さな女の子。

某は何者でもなれるがゆえに、その存在はふたしかでさだまらず流動的で、すなわち何者でもない。

作品のなかで、某のようなふたしかな存在は世界に数百存在する激レアさんみないな存在として描かれる。

この物語は、何者にもなれる何者でもない某が、誰かを愛することで、「変わりたくない、ずっとこのままでいたい=何者かでありたい」と心から思うように”変わっていく”過程を描いている。

生きると変わるってにてる。


生きるということは、変わりつづけることだ。

某に限らず、生きとし生けるものは(生に関わらずこの世の万物は)たえず変わりつづけている。

変わりつづけている間はずっと不安定だ。

自分が何者かがさだまらずフラフラ流浪する。

ニンゲンでいえば、思春期や若いころはとくにフラフラしている。自分とは何者で何のために生きているのか、みたいな答えのない自問をくりかえしている。柔軟であると同時に、何者でもない不安を抱えて生きているのだ。

パン生地とニンゲンもにてる。


某を読むと、うっかり人生について思い馳せてしまうのはなぜか?某はカタチのさだまらないパン生地に似ている気がする。クロワッサンにもベーグルにもなれるけど今は何者でもない。

そして奇跡的にニンゲンともよく似ている。公園で遊んでいる彼らも、受験勉強で夜遅くまで机と一体化してる彼らも、何者かになりたい変化のまっただなかにいる。

そう考えると、某はニンゲンが生まれてから死ぬまでの、たいへん悩ましくて愛おしい過程を擬人化した存在なのではないか。

某は悩める僕らを客観視させてくれる。某を読んでなんとなく人生哲学について考えてしまいたくなるのは、某は僕らと同じだからではないか。

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