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ノモンハン喪失


内容紹介

反戦をテーマにする著者が、かつて陸軍砲兵として召集され戦後は定年まで気象庁につとめた亡父の未刊作に手を入れ再編集したノンフィクション集。

砲兵、測量技術者としての主観からノモンハン事件を分析した表題作ほか、戦時に西沙群島で消息をたったままになっている実在の気象技術者を描いた「南海譚」、日本国のシステムに組みこまれた朝鮮人兵士、労働者に思いを寄せた「無為の日」、「日本人田川禎助の最期」の4編を収録

400字詰め原稿用紙換算枚数:222枚

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はしがき

このノンフィクション集は、かつて陸軍砲兵として召集され、戦後は定年まで気象庁につとめた亡父、光明(1923~2016)の未刊の作品に全面的に手を入れ、再編集したものである。文中にあった現在では差別的とされる用語は、当時の時代背景を尊重し、あえてそのまま使用した。特定の民族を差別、誹謗、中傷する意図はない。しかしそれらが生みだした国家などのシステム、またそこに存在する無恥、悪意については、この限りではない。



ノモンハン喪失

 中国歴代王朝は万里の長城が黄海に達するあたりの関所、山海関より東を関東と呼び、満州という名は使わなかった。そして山海関より先は化外、すなわち王化のおよばない地とみなしていて、統治がおろそかになりがちだった。そこにつけこんだのがロシアと日本。日露戦争に勝った日本はこの地に南満州鉄道などの権益と、その権益を守る軍を駐留させる権利を得た。そのために配置された日本の方面軍が関東軍だ。ここの司令部はいつしか陸軍の出世コースになり、のしあがった幹部たちが戦争を拡大し、日本を滅亡の淵に導いていく。

 昭和初期は金融恐慌といわれた世界規模の不況。日本がそこから脱出するには中国東北部、つまり満州での経済発展が必須といわれていた。一九二七(昭和二)年四月、組閣を終えた田中義一は有力軍閥、張作霖のもと軍事顧問、町野武馬に頼んだ。
「自分が内閣をひきうけたのは、中国問題を解決するためである。満州は日本の生命線である。今日のままにしておいたのでは、うちがやかましく、おさえることができない。そうすれば戦争だが、戦争は困る。満州に五本の借款鉄道を建設させてもらえるよう張作霖にはからってくれ」
 田中はかつて陸軍大臣としてシベリア出兵を敢行した軍拡派だったが、日本は深刻な不況で、もはやそれどころではなくなっていた。大事な満州の利権をめぐって中華民国政府や現地の軍閥といろいろもめていたのだ。町野はただちに北京で張作霖に強談、さらに政友会幹部、南満州鉄道総裁の山本条太郎に交渉させて借款鉄道建設を承諾させた。そして一九二八(昭和三)年二月山本総裁と張作霖が契約を交わし、七月に公表する運びになった。山本は張作霖とほかにも協定を結んで何とか経済を好転させようともくろんでいた。
 ここまでは普通の不況対策だった。行政のほぼ思惑通りにことがすすんでいたが、すべて秘密裏だったはずの画策がなぜか関東軍にもれていた。
「このままでは陸軍が手柄をたてられないではないか、となった。そこで暴走した連中がやったのが、張作霖爆殺だ」
 と町野は回想する。本当ならきわめて単純、身勝手な動機で重大な破滅への舵がきられたことになる。だが正義あるいは国益より、我欲またはおのれの集団の利益を優先する人間は往々にしてこのようなことをするものだ。
 北京から奉天に向かう張作霖の特別列車が終点手前で爆破されたのは一九二八(昭和三)年六月四日午前五時半。河本大作大尉一味による謀殺だったが、関東軍は真実を隠蔽し、中国人阿片中毒者三名を首謀者として二名を斬殺。しかし一名が軍師府に逃げこんで真相を話し、日本軍の自作自演が暴露される。そして諸国の日本をみる目はますます厳しくなっていく。
 
 このような前歴のある関東軍は三年後、
「九月十八日午後十時半、北大営の北西において暴戻な支那兵が満鉄線を爆破し、わが守備兵を襲撃したので、わが守備隊は時を移さずこれに応戦し、大砲を以て北大営の支那兵を襲撃し北大営の一部を占領した」
 と発表した。北大営の支那兵とは現地駐屯の中華民国東北軍、満鉄線とはロシアからぶんどった南満州鉄道のこと。だが実際に爆破したのはまたもや関東軍の謀略工作班だった。こうして満州事変がはじまり、勢いにのった関東軍は満州各地に戦場を広げ、一九三二(昭和七)年三月、ついに傀儡国家、満州帝国の建国に成功する。

 満州国の大興安嶺山脈を西にこえると、そこは蒙古の大草原、天と地が果てしなく続くホロンバイル。その名はホロン湖とバイル湖という大きな湖にちなむ。過去の歴史の恥部を過小にしたいのだろうか、最近の本には満州国は現中国の東北三省だった、と大雑把にかかれることが多い。だが実際は内蒙古の一部も含まれていた。建国前は田中義一首相もいったように「満蒙は日本の生命線」とのキャッチフレーズがあり、新国名を「満蒙国」にする案さえあったのだ。
 満州建国に際し、その国土で日本、朝鮮、漢、蒙古、満州の五族が共和して暮らす、という表向きの理念があり、国旗に黄、赤、青、白、黒の五色をあしらい、その五族共和をあらわした。ここでの満州族とは、もと蒙古系の南方ツングース族の一派、往古に金国をたてた女真族、のちに明国を滅ぼして清朝を成立させ、以後漢族と混血した民族をさす。
 満州国のホロンバイルは内蒙古の一部だが、もともとこの大草原地帯では内蒙古、外蒙古という区分はなく、各民族が共和していた。それぞれ季節に応じて自由に往来してきた遊牧民にとって土地の境界、すなわち国境を決められることは、はなはだ迷惑だった。
 長年ホロンバイルに暮らした研究者、米内山庸夫の「蒙古風土記」には、
「清朝、中華民国の両政府下、ハイラルで裁判官をしていた中国人の某氏は、蒙古人の裁判くらい楽なものはない、したことはした、知らないことは知らないといい、単純で嘘偽りがない、といっていた。ではロシア人はどうかときくと、蒙古人ほどではないけれども、やはり朴訥で正直だという。支那人はどうかときくと、彼自身その支那人である某氏は、顔をしかめて首を振っていた」
 とある。一九三五(昭和十)年ころのことだ。米内山がハイラルのある店にいると、
「蒙古人が買い物にきて、白い金巾の布を三尺(約九十センチ)ばかり広げて値を問うた。店主の支那人が一円二十銭とこたえると、その蒙古人はしばらく布をみていたが、黙って財布からそれだけ払って持ってかえった。それはおそらく一尺十銭もするかどうか、三尺でせいぜい四十銭ぐらいのものと思われた。ひどいじゃないか、とあとで店主にただすと、蒙古人はいくらでもこちらのいう値で買っていく、と笑っていた」
 ということがあった。米内山は、
「駆け引きがなく値切ることを知らない蒙古人は、すべて漢人に吸いとられる」
 と嘆いたそうだ。もちろんこれらは一端の描写に過ぎないが、ホロンバイルに暮らす人の気風がよくわかる。
 清国は同じ蒙古系の満州族、愛新覚羅家によるもの。遊牧生活など蒙古人の文化を理解し、優遇する政策をとってきた。しかし中華民国新政府はその特性を軽んじて、漢人の定住農民と同様にあつかった。蒙古人は困惑し反発した。一九二一(大正十)年、外蒙古といわれていた地域がラマ教の活仏を元首として中国から独立し、三年後モンゴル人民共和国、ロシア革命で成立したソビエト連邦に続く第二の社会主義国となった。中国は認めなかったが、当然ソ連は歓迎し、以降モンゴルの後ろ盾となる。
 そのモンゴルに接する満州国は二十の行政区にわかれていた。大興安嶺山脈の西側はハイラルを首府とする興安北省。人口は少ないが民族は多様だった。漢人はもちろん、北部の森林地帯にはトナカイを遊牧し狩猟をして暮らすオロチョンなどツングース系民族がいた。
 その森の南、ハイラルの北、興安嶺からアルグン川へそそぐ三支流の流域が三河地方。そこには半遊牧の蒙古人と革命に追われた白系ロシア人が多くすんでいた。同じくバイカル湖近くから逃げてきた蒙古系半遊牧のブリヤート人は、ハイラルの南に定住していた。主要都市、満州里(マンチュリ)には蒙古系諸民族のほかロシア人、日本人もいた。
 ホロン湖とバイル湖のほか小さな湖や鹹湖、数十メートルから百メートルほどの高低差はあるが、ホロンバイル全般、遊牧民がいきかうだけの大平原だ。鞍をつけたままの馬二頭の陰で男女が裸で抱きあっていることもある。しかし北緯五十度近い寒冷地なので、裸でいられるのも五月から八月に限られる。このあいだに春と夏と秋が通りすぎる。短期に広い草原で受粉に必要な虫を集めるため、野に咲く花の香りは強い。開花期の草原に入ると衣服まで香りがしみこむ。シャクヤクもこのあたりが原産で、興安嶺西麓の六月はどこもこの花の香りで満ちる。そして九月、この生命感あふれる草原に冬が訪れる。厳寒期の気温は零下五十度におよぶ。
 大興安嶺南から北西のバイル湖に向かい流れるハルハ川。バイル湖とその北のホロン湖はウルスン川で結ばれ、さらにホロン湖から北東に流れる水はアルグン川となり、満州国の北で大きく東に向きをかえ黒竜江となる。対岸はソビエト連邦、シベリアだ。

 一九三二(昭和七)年に中国からむしりとって独立させた満州国の国境、東部と北部は明確だったが北西部は曖昧だった。特にホロンバイルではモンゴルとの境界がはっきりしていなかった。遊牧適地のウルスン川流域が満州国領土なのは明らかだった。だが同じ遊牧適地、ハルハ川流域の国境線が定まっていなかった。
 満州国もモンゴルもソ連と日本が勝手に中国に蚕食してこしらえた不安定な国だったのである。
 当時の蒙古草原関係の資料に、ハルハ川の深さは二、三尺とある。水や湿地が苦手な馬だが、浅い川ならいとわず渡る。そのため日本人の常識と異なり、このあたりの遊牧民は必ずしも川を境界とは考えなかった。蒙古人も満州人も同様だった。おたがいの越境はたびたびあり、小競り合いに発展することもあった。だが国境警備のモンゴル軍、満州軍の兵は遊牧民の習慣をよく理解していた。たがいに多少の侵犯には目をつぶり、何かトラブルが発生しても現場でうまく処理し、大事には至らなかった。
 しかし関東軍はこのハルハ川を外蒙古、モンゴルと満州の国境と断定していた。
 国民軍、政府軍といろいろ名があるように、軍隊の成り立ちや持ち主は国によって違う。日本軍は皇軍、つまり天皇の軍隊だ。大元帥たる天皇陛下の許しなく、一兵たりとも動かすことはできない。
 ところが満州事変では、一駐留軍に過ぎない関東軍が、勝手にどんどん戦火を広げてしまった。それなのに陸軍は、天皇の統帥権を無視した首謀者を処罰するどころか、満州をぶんどれたのだからいいではないか、と栄転させてしまい、独断専行をよしとする気風を軍人のあいだに蔓延させてしまっていた。
 ハルハ川流域がきなくさくなってきた時、東京の陸軍省や参謀本部にいたのは、まさにそんな連中、満州国の首都、新京で戦闘を主導していた関東軍首脳部は若い時にそれをみて学んだ連中が中心だった。勝手に戦争して褒められて偉くなった東京の先輩にあやかろうとするのは当たり前。対手の挑発にのせられているのではなかろうか、などと疑う慎重さなど微塵もなく、一丁やってやろう、ガツンとやって黙らせてやろう、少しでも領土を広げてやろう、とひたすら前のめりになっていく。
 ただ国境地帯でモンゴル軍をたたけばその後ろ盾のソ連軍が黙っているはずがない、そのことはみなわかっていた。当時の日本は中国を相手に手一杯で、ソ連とまで戦争するゆとりはなかった。
 しかし陸軍省と参謀本部にはもともと齟齬があり、どちらも関東軍の手綱をうまくしめることができない。関東軍も、今さら専断、暴走するなといわれても、素直にきけるはずはない。東京も新京も、陸軍幼年学校、士官学校、大学校と優秀な成績で卒業してきたエリートぞろい。プライドの高い人間ほど意固地になりやすいので、一度仲違いするとやっかいだった。こうして日本は定見のないまま、ズルズルと戦いにひきこまれていく。

 ハルハ川の小競り合いは一応順次関東軍司令部に報告される。捨ておくこともできたはずだが、軍司令官、植田謙吉はそうはせず、強硬派の作戦参謀、辻政信の起案といわれる「国境紛争処理要綱」を通達し、ハイラル駐屯第二十三師団の尻をたたいた。一九三九(昭和十四)年四月二十五日のことである。
 師団単位の大兵力投入とはゆゆしいことで、東京の陸軍省や参謀本部でもさすがに異論が出たが、陸軍大臣、板垣征四郎が、
「一個師団ぐらい、やかましくいわないで、関東軍にやらせたらよい」
 と軽い感じで発言し座をまとめた。天皇の赤子をあずかっていることに思いおよんだ形跡はない。
 そしてその関東軍、植田の通達を受けたハイラル駐在第二十三師団参謀長、大内大佐はいった。
「一個連隊を急行させて蒙古部族民を痛い目にあわせて、ちぢみあがらせてやるのだ」
 五月十三日のことだ。司令部でも豪語が続く。
「戦闘は数日で片がつく。握り飯二、三日分をハイラルから運べ」
「優勢なわが砲兵の前には敵はひとたまりもない。一、二時間で沈黙する」
 この時点では敗戦どころか苦戦さえ予想するものがいなかったハイラル。以降ここから多くの兵が多くは徒歩で二百キロ以上先の戦場に向かう。
 当時の日本兵はどこにいくのも、てくてくと歩くのが常識。この常識通り歩いていっても大丈夫と自信を持って戦いにのぞんだ。もし親玉のソ連軍が出てきたとしても、戦場はシベリア鉄道沿線の補給基地を遠く離れている、敵に地の利なしと踏んでいたのだ。輸送は人か馬頼りだった日本軍には、
「兵站は鉄道幹線に沿うべきもの。広漠不毛の地での大軍の作戦は、鉄道から二、三百キロ以内が限度」
 との常識があった。だがそれは自動車や航空機の多用により簡単にくつがえるものだった。

 その日本軍の頼みは歩兵の肉迫攻撃。時代遅れと批判されがちな戦法だが、核兵器や軍事衛星の時代になっても、対立勢力の土地を武力で制圧する戦争の本義はかわらない。必ず最後の局面で、何がひそむかわからない敵地に飛びこんでいく勇敢な歩兵が必要になる。飛車や角など大駒だけで将棋はさせない。だから指導者がそこを重視したのは、あながち間違いとはいいきれない。
 問題は、そこしか重視せず、火力、機動力などほかの大事な要素をおろそかにしたことだ。大駒をそろえず歩だけで将棋をさしてしまったことだ。
 備えの不十分なまま、先手必勝とばかりハルハ川をこえモンゴル領内に攻めこんだ日本軍だが、作戦指導者の思い通りにことは運ばなかった。先手必勝といっても、闇雲に先に攻めればいいものではない。こちらの動きが読まれていれば、相手に「先後の先」をとられ、先に攻めても負けてしまう。「先手」という概念は、もともと相手を先に動かすという心理的要素も含むデリケートなものなのではないか。そういうことを武道などで十分学ばないまま偉くなってしまった指導者ばかりだったのだろうか。
 それら作戦指導は参謀の役目である。参謀は高級指揮官の幕僚、作戦のほか用兵の計画、意見具申などが任務で、指揮権を持たないのが原則だ。太い紐の飾り、陸軍の場合は黄色の参謀肩章を右肩からさげる軍装はなかなか格好がいい。もちろん格好だけでなく頭がよくないとつけない職務のはずだ。だが出世のために頭を使ったのは確かだろうが、戦争の顛末を俯瞰すると、陸海軍とも頭がよかったとはとても思えない。軍に限らず、日当たりのいい出世コースは得てして自己顕示欲、権勢欲だけ強いものを集めがちになる。ついに指揮権などないはずなのに司令官をおしのけて独断専行する参謀が出てきた。関東軍の辻政信も、やはりのち悪名をはせる東條英機もそうだった。ただ二人とも才気走っていて自己演出にもたけていたので人気はあった。人の本質をみぬくのは案外容易でない。
 辻は陸軍幼年学校と陸軍士官学校を一番、陸軍大学を三番の席次で卒業したので頭がいいと思われていた。それでかどうかわからないが、のちのシンガポール攻略戦で「作戦の神様」とか「天才」とかいわれて持ちあげられるようになる。だがこれは日本軍がまだ準備不十分のイギリス軍に倍する兵力で急襲したもので、勝って当たり前のいくさだった。神様、天才とおだてたのはおそらく従軍記者だろうが、辻はそれらに一体どう演出したのだろうか。実際はそれどころか、その後担ったバターン攻略戦、ガダルカナル島攻防戦、北ビルマ死守戦の作戦指導はみな拙劣、無謀で、将兵は水浸しのジャングルと飢餓に苦しみ、ビルマ戦ではついに人肉を食うまでに至った。ここでは頭のよさの片鱗もない、「断固戦え」と「卑怯な振る舞いは許さぬ」の二点にこりかたまった狂信的な参謀として知られる。マレー進攻時の総指揮官、山下奉文中将も辻を、
「我意が強く、小才に長じ、こすき男、補佐すべき上司を滅ぼす参謀」
 と評していたらしい。
 辻は大戦を生きのび、戦犯にもならず、石川県選出参議院議員になった。国政の場で今さら何をするつもりなのか、世間が首をひねっているうちに、なぜか東南アジア旅行に出た。辻のおろかな作戦で何万もの将兵がいくさらしいいくさもできず、飢餓に苦しみ、ジャングルの泥濘に沈んだ、多くが無意味に、無念に死んだ土地だ。
 そして辻の消息はラオスでとだえた。亡霊にとりころされたともいわれている。
 さて、その辻が当時関東軍で作成にあたった「国境紛争処理要綱」には、
「断固徹底的に膺懲することによりてのみ、事件の頻発または拡大を防止しうる」
 とあった。衝突がおきた場合は、
「徹底的にこれを膺懲し、野望を初動において封殺破砕すべし」
 と指示していた。
 膺懲というのは、こらしめるという意味だが、当時支那人と呼んでいた中国人に対してよく使っていた、相手を悪戯小僧よろしく下にみたおごりが感じられる言葉だ。とにかく過激さだけが際だつ頭のいい人の文とは思えないのだが、この要綱が災いし大事件に発展する。辻の頭はそこまでおよんでいたのだろうか。

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