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真空に耐えること

とにかく筆を走らせてみる。私は書くことを解決のための手段にしか使ってこなかった。悩みを書き出す。不安を吐き出す。改善するために。納得するために。
記憶は簡単になくなる。脆い。今を書き留めておいても、言葉に翻訳した感覚は匂いは、なくなってしまう。だからできるだけ考えずに、純粋に。

ひとりで本を読む。「こういうときはこの人の本。」ってなんとなく決まっていることが嬉しい。支えがある気がする。それだけたくさん本を読んできた自負のようなものと、ひとりの時間をそれだけ過ごしてきたという実感。
江國香織を読むほどの穏やかさ、東野圭吾を読むほどの前向きさ、村上春樹を読むほどの余裕、シモーヌ・ヴェイユを読むほどの限界。

例えば、私は自分の話をするときに、恋人の存在をきっかけにしたくないと思った。
恋人の存在は、程度は違えど、大抵心を浮き沈みさせるものだ。
私に向けて書く文章が一気に「共感」に向いていく感じがする。だからこそ自分の大きな一部であることに違いはないけど、まだ、共感は嫌だ。
共感のために書いたら、それは私が大学で描いていた駄作の絵と同じ、媚びを売ることになる。

私はなんの目的も無いのに続けていたフランス語の勉強とか、最近やっと面白いと感じるようになった英語の勉強の最初の半年間とか、なんの役に立つのだろうと思いながら続けたインターンとか、無理して張らなくてよかった無意味な意地とか、そういうものでできている。
人が作られるのは浮き沈みがある時ではないかもしれない。コントラストが強すぎて、鮮明に、記憶にも、物理的にもよく残るけれど。
平たくて、終わりが見えなくて、記憶にも残らなくて、誰からも気づかれないような、恒常的な行為の偶発的なアウトカムがたまたまコントラストの強い衝撃としてよく記憶に残るだけかもしれない。
思いつくアイデアも、認められることも、気持ちのいいことも、眩しくて心拍数が上がって、簡単に楽しいと思ってしまえる。でも、これらはこの恒常的な行為のアウトカムに過ぎない。

コントラストの強さに目を眩まさずに、それの重要性を忘れずにいたい。シモーヌ・ヴェイユが「真空」と喩えた状態。なんの変化も起きず、起こせず、もしくは起こさないと決めて、その耐え難い「永遠」の中で継続させること。これが私をつくる。
この「真空」を自分で選ぶからこそ、偶発したイベントによって、角度が変わっていく。何も選ばずに感情の浮き沈みを簡単に許し、自分に与えられる刺激に感度の全てを許したくにゃくにゃの状態でいるよりも、真っ直ぐ堅く「真空」の状態に閉じこもることを決める方が実は予期せぬ方向に曲がった時の楽しさも心拍数の増え方も大きい気がする。

私はその変化を受け入れるポテンシャルと期待を持って、ひとりの部屋で自分の真空を作り出す。

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