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コロナ渦不染日記 #68

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十一月一日(日)

 ○今日から十一月。秋晴れの空を眺めながら、朝のコーヒーを飲む。

 ○朝食を食べ終えると、かねてから気になっていた、「おもしろ同人誌バザール」へ向かった。

 このイベントは、「情報系同人誌」なるものをあつかうという。ホームページを見ると、

今回私たちのイベントでは「情報系同人誌」にフォーカスを当ててみたいと思います。
では「情報系同人誌」とはなんでしょうか。

基本的には、

読者に伝えたい「情報」をテーマに
まとめられた同人誌


を情報系同人誌、とします。
いわゆる「評論・情報」のジャンルに属する同人誌を中心に、ほかのジャンルでも「情報っぽいもの」であればOKです。

食べ物、飲み物、旅行、本、映画、スポーツ、学問、世界の国と地域、文化、
家電、雑貨、ライフスタイル、さらには各種の趣味や仕事……。
それこそ挙げていけばきりがありません。
サークル参加をお考えの皆さんが

「うちの本こそ、情報系同人誌だ!」

と胸を張れる本であれば、たいがいのものはOKです!
「文字中心じゃないとダメなの?」 いえいえ、そんなことはありません。
表現の仕方も、自由です。

――「情報系同人誌って何だ?」(「おもしろ同人誌バザール」ホームページ)より。

 ということであるから、二次創作とか、物語的なものではなく、事実に即した一次情報をあつかうもの、と考えればよかろう。
「なに、行ってみれば、おもしろいもののひとつはあろうぜ」
 相棒の下品ラビットがそう言うので、イナバさんを呼び出して、一緒に行くことにしたのである。

 ○「文化の日」を二日後にひかえ、例年ならば、「神田古本まつり」のために、五十メートル進むのも困難な人出であった神保町は、今年、ほかの週末とかわらない、しずかな昼をむかえようとしていた。靖国どおり沿いを歩いても、岩波ホールの前をまがっても、古書の壁も人の壁も見られない。いうまでもなく、新型コロナウィルスの感染流行の影響、この日記の言い方でいえば「コロナ」のためである。緊急事態宣言解除後の、日々のくらしに追いたてられて、マスクをしていることにすら、慣れてしまったぼくであったけれど、この閑散とした「十一月初頭の古書店街」には、なにやらん、うすら寒いものを感じずにいられなかった。
「腹減ったから、飯にしようぜ」
 下品ラビットがそう言うのも、どこかそらぞらしい雰囲気があった。

 ○昼食は「マンダラ」のカレーにした。

「ボンディ」、「ガヴィアル」、「オードリー」……数えあげればきりがない。神保町は、古書店だけでなく、カレーでも名店がひしめく場所である。もちろん、それぞれにうまいのであるが、ぼくはこの「マンダラ」をいちばんとする。理由は、ランチセットがリーズナブルだからである。ちいさめの器にはいったカレーを二種類選び、ちいさめサイズのサフランライスと標準サイズの焼きたてナン、タンドリーチキンとシークカバブがひときれずつ、そしてデザートがついて一六〇〇円なのは、たいへんお得だと思っている。もちろん、カレーは、ほかの名店に比べて遜色などない、満足のいく味である(ちなみに、下品ラビットは「ガヴィアル」、イナバさんは「オオドリー」をいちばんに推すそうだ)。

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 今日のカレーは、マトンとヌールジャニハ(骨つきチキンとレバー)にした。レバー入りのカレーを食べるのははじめてだったが、濃厚なレバーのうまみがカレーに溶けだして、うまい。最後の一滴まで、ナンでこそぐようにして食べた。

 ○昼食をマンダラにしたのは、「おもしろ同人誌バザール」の会場である、「ベルサール神保町」の二棟に近いから、という理由もあった。
 ナンとライスで腹がふくれているために、ゆっくりと歩きながら第一会場へむかう。
 会場では、検温やアルコール消毒のほかに、事前登録を行うなど、感染症対策を徹底していた。事前登録についてすっかり失念していたが、その場ですぐ登録できたので、手間というのでもなかった。こういうときに、ICTというのは便利なものだ。
 会場に入ったところで、たぬきの写真集を配布している、二組のサークルに目がとまる。話しかけて、本を配布してもらい、話しこんでいると、イナバさんが声をかけてきた。
「このままではらちがあかない。自由行動にすべきだ」
 イナバさんに理があることは、ぼくとイナバさんだけが会話をしていることから、すぐに納得できた。下品ラビットは、すでに姿を消していたのである。一時間後の再会を約束し、ぼくたちは解散した。

 ○一時間後、第二会場で三匹が集ったときには、それぞれに「戦利品」を抱えていた。
 ぼくは、たぬきの写真集のほかに、第一の目当てであった、naotowaveさんのGifアニメZINEと、vaporwaveZINEを手に入れたあと、以前、『男たちの挽歌』のコミカライズ版を通販した、香港漫画店さんに、偶然にも遭遇して、話しこんだすえに、香港のレトロマンガの復刻版についてまとめた『1970-80年代 香港復刻版薄装本漫画の世界』を手に入れた。

 下品ラビットは、スギモトマユさんというイラストレーターによる、海外旅行先で出会った、人間のおじさんたちのイラストをまとめた『イケオジの本』ヨーロッパ編とアジア編、それにロンドン滞在記『MY London』を手に入れていた。イナバさんは、文具の本と島根の本(イナバさんの名前は、遠い先祖である因幡の白ウサギの故事にちなむ)、それに歌工房さんでグッズを買いこんでいた。


 ○その後、銀座に移動し、京都のチョコレート屋〈マリベル〉のカフェで「カカオマーケット」で一服した。

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 三匹でひとつずつ選んだアイスを食べる。これで、昼に食べた、「マンダラ」のカレーランチAセットとおなじ値段だから、〈マリベル〉あなどりがたしである。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、六一四人(前日比-二六一人)。
 そのうち、東京は、一一六人(前日比-九九人)。


十一月二日(月)

 ○飛び石連休のなか日としての出勤である。
 今朝の体温、三五・九度。

 ○それなりに忙しいものの、滞りなく現場は進む……と思ったら、〆の打ち合わせが始まらない。現場で、別口のイベントがあったのだが、それが押しているようだった。どうやら、おおくの招待客を呼ぶイベントだったので、感染リスクを避けようと、ふだんとは違う開催場所を用意したことで、招待客の移動に戸惑っているらしかった。
 結局、一時間待ちということになり、現場の担当者は恐縮していたが、こちらは、書類仕事をこなしながら、のんびり待っていたので、否やはなかった。それでも、現場を出て、もより駅へむかう道が、先月までと異なり、とっぷりと日の暮れているのは、やはり秋も深まって、いよいよ年の瀬が近くなっていることを、感じずにはいられなかった。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、四八七人(前日比-一二七人)。
 そのうち、東京は、八七人(前日比-二九人)。

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十一月三日(火)

 ○文化の日。
 文化とは、知性生物のいとなみのことであるから、その対象は多岐にわたるが、ぼくにとっての文化とは、こんな日記を書いていることからも、言語活動であることはあきらかである。
 言語は文化の血肉である。だから、言語なきところに、文化は、生まれはしても長続きはできない。もちろん、言語は発声や、文字に留まらない。知性生物の脳内で起こる、反復や記憶といった、電気信号(といわれている現象)もまた、ぼくは「言語」と規定する。
 つまり、ぼくが考える「言語」とは、知性生物が、その認識を、他の知性生物へと伝達し、共有する媒体のことなのである。まなざしも言語だし、身振り手振りも言語だし、言語なき空白もまた、知性生物の知性の影響下において生まれるなら、それも言語であろう。

 ○日中は、姪うさぎをあやしながら、以下の本を読む。

 ○藤子・F・不二雄『エスパー魔美』。

『エスパー魔美』は、子どもむけのマンガではあるが、シビアな現実をつきつける、容赦のない作品であることを、再確認した。魔美たちのかよう中学校の応援団を題材にして、いつ、どこでも起こりうる「暴力による支配」のおそろしさと、そこに果敢に立ちむかっていく、孤独な人間の無力さを描いた「学園暗黒地帯」(新装版五巻/文庫版四巻)は、最終的には魔美の超能力で悪党が一掃されはするものの、もちろん超能力などどこにでもあるものではないので、これは逆説的に「支配に立ちむかう人間の無力さ」を描いていると読めもする。「サマー・ドッグ」(新装版五巻/文庫版四巻)などは、超能力すらシビアな現実には太刀打ちできないことを示して、苦い終わり方をする。
 また、主人公の魔美が、「超能力者であることがばれる」こと以外に、危機におちいる場面で、特に性的な被害にさらされかけるサスペンスがおおいことにもびっくりした。「恋人コレクター」(新装版五巻/文庫版四巻)で、プレイボーイの思考を読んだ魔美が垣間見るのは、あきらかにレイプ直前の光景であったし、「魔美が主演女優?」(新装版六巻/文庫版四巻)と「マミ・ウォッチング」(新装版六巻/文庫版四巻)の連作は、魔美個人の人格を無視して、「思春期の少女の肉体」に興味を寄せる男たちの視線が、さらりと、しかし印象的に描かれる。おおくのエピソードで指摘されるように、魔美は「かわいい」「スタイルのいい」女の子であり、むしろ、そうした「他者の一方的な価値観による意味づけ」にさらされる存在であり、そうした暴威がこの世には存在することを、無視していないのである。
 そして、だからこそ、魔美のやさしさや、高畑くんの聡明さと勇気が輝くのである。「学園暗黒地帯」で、勝てないと分かっていても悪に立ちむかい、なんとか解決の道を探ろうとする高畑くんの姿勢や、「魔美が主演女優?」の後半で、こころに傷を負った魔美が、思わずテレパシーで(ことばでなく!)苦境を伝え、それを高畑くんが、余計なことは言わずに受けとめるシーン、「エスパーもさらわれる?」(新装版七巻/文庫版五巻)で、ふざけ半分に誘拐された魔美が、ドジな誘拐犯に同情し、殺されそうになっても相手への同情を捨てないシーンなどは、胸を打つ。
 もちろん、インターネットじょうでよく引用される、「魔美の父の『批評に関する意見』」をはじめとして、芸術という文化、つまりは「人のこころの具現化」である「知性生物のいとなみ」をめぐる物語としても、『エスパー魔美』は秀逸である。最終エピソード「パパの絵、最高!」(新装版九巻/文庫版六巻)はいうにおよばず、絵をめぐるエピソードはたくさんあるし、「魔美が主演女優?」や「リアリズム殺人事件」(新装版九巻/文庫版六巻)では映画制作、「人形が泣いた?」(新装版七巻/文庫版六巻)では人形劇、「彗星おばさん」(新装版九巻/文庫版六巻)では天文、「ドキドキ土器」(新装版八巻/文庫版六巻)では考古学、「占いとミステリー」(新装版九巻/文庫版六巻)ではタイトルどおり占いとミステリ小説など、さまざまな文化が題材としてとりあげられ、それらが人を救いもすれば追い詰めもするさまが描かれるのだ。
 個人的には、「占いとミステリー」において、あの聡明でやさしい高畑くんですら、魔美ちゃんが他の男をほめるのを聞いて、反射的に相手のあらさがしをしてくさしてしまうシーンを描いた、藤子・F・不二雄氏の公平さに感服した。この公平さなくして、『エスパー魔美』は傑作たりえなかったであろう。

 ○カート・ビュシーク/アレックス・ロス『マーベルズ』。

 アメリカンヒーローコミックが、「背景」として描いてきた「普通の人びと」を描いて、彼らの目から見た、「超人[マーベルズ]たちのいる世界=アメリカ」の歴史を、一九三九年から八〇年代までたどり、かつ、そうした「普通の人びと」の弱さ、醜さ、つらさ、苦しさを描くことで、彼らの映し鏡である、ヒーローたちの「内面」にも迫る、出色のアメリカンコミックである。いや、これはもはや、伝奇といっていい。
 主人公は、第一話から第四話まで、一貫して、ただのジャーナリストである。彼が、この物語の主人公になったのは、彼が、一九三九年の時点で、意気軒昂なジャーナリストであったからにすぎない。そういう点で、彼に、ヒーローたちに匹敵するような「個性」はない。と同時に、彼は彼でしかありえない。我々が、我々でしかないように。
 そういう、どこにでもいる、かけがえのない人間の、弱く、醜く、つらく、苦しいこころのうちが、これでもかと描かれる。最終話、この弱い男が、『デイリー・ビューグル』誌の強面編集長であり、古くからの友人である、ジョナ・J・ジェイムソンが、「親愛なる隣人」スパイダーマンを毛嫌いするのに首をかしげながら、ジェイムソンにスパイダーマンの写真を売って小遣いを稼ぐ、「軽薄な若者」ピーター・パーカーを嫌うのは、その最たるものであろう。しかし、この構図は、彼こそピーター・パーカーとおなじ「普通の人」であり、スパイダーマンもまた、彼とおなじ「普通の人」であることを示しているのである。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、八六六人(前日比+三七九人)。
 そのうち、東京は、二〇九人(前日比+一二二人)。


→「#69 本質的に孤独」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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