コロナ渦不染日記 #97
一月三十日(土)
○映画『ハーレー・クインの華麗なる覚醒』を見る。
『スーサイド・スクァッド』(2016)は中途半端な映画であったが、その中途半端さのなかでも、マーゴット・ロビー演ずるハーレー・クインは、際だって輝きを放っていた。本作は、その魅力を前面に出して制作するために、マーゴット・ロビーが主演した『アイ、トーニャ』(2017)の「信頼できない語り手によるドキュメンタリ風演出」を取り入れて、さらには女性主人公の物語を作るときの一種のトレンドとなっている「ガールズ・エンパワーメント」をテーマに採用し、ヒットを狙ったものと考えられる。
問題は、そのようにして作られたからか、後半に行くにしたがって各要素の結びつきが強くなるべきところを、決定的なゆるさを残したまま進行してしまい、やはり中途半端になってしまったところにある。ハーレー・クインが「男に依存する以外の生き方をしらない女」であることが最初に提示されているので、そういう自己からの脱却がこのドラマのカタルシスとなることは早々に知られるが、だからといって「男は全員、脱却すべきもの」とするのは、かえって公平さを欠き、エンターテインメントとしての誠実さを失うことになってしまっている。
エンターテインメントとは、受け手を喜ばせるための手練手管であるが、それが作意による「虚構」であればあるほど、「現実」をきっちりと「模倣」しなければならない。どんなに新鮮で高級な食材をもちいたところで、味付けを間違えればすべてが台無しになるが、そのための味付けこそ、エンターテインメントにおいては「現実をいかに模倣しきるか」なのだ。
なにもかもが都合のいい嘘でできているとわかってしまったら、あるいは、体験を提供する側が「ここまでやったから大丈夫だろう」と手をぬいているとわかってしまったら、受け手が感じる「体験の喜び」は醒めてしまう。
○仕事の後輩と、週明けの現場代行のためのやりとりをする。不安は残るものの、なんとかかたちになってきた。
○本日の、全国の新規感染者数は、三三三九人(前週比-一三七七人)。
そのうち、東京は、七六九人(前週比-三〇一人)。
一月三十一日(日)
○岬の駅前商店街をうろうろしていると、人獣男女とりまぜた、数人のグループが、プラカードを手に、口をそろえて叫びながら、こちらへ歩いてくるのに遭遇した。
「新型コロナウィルスは嘘です。マスクをする必要はありません。そんなウィルスは存在しません」
すれちがう。
「渋谷駅前に似たような人たちがいたっていうのは、ずいぶん前のことだね」と、一緒に散歩をしていたイナバさんが言う。
「本当にいたんだな」と、相棒の下品ラビットがつぶやいた。
してみると、彼らが実在するごとく、新型コロナウィルスもまた、実在する可能性はある。自分に都合のいいが存在するのであれば、都合の悪い者もまた、おなじだけの確率で存在する可能性がある。
○もちろん、「新型コロナウィルスが存在しない」可能性もまた、おなじだけの確率で存在する。しかし、それを喧伝することに、どんな意味があるだろう。よしんば、新型コロナウィルスが実在しないとして、実在するという仮定のもとに行動している人々に対して、そのことを納得させることには、どんな意味があるだろう。そして、もし、そのことを納得させたいのであれば、「そんなものは存在しない」ということを喧伝するだけでは、力不足ではないか。その人たちが、「ある」ということを納得できないように、相手もまた、「ない」ということを納得できないだろうから、その気持ちを変えるためには、どのような手段を講じるべきか考えたならば、あのような行為だけでは終われないはずである。
とするならば、彼らは、自分(たち)だけのために、あのような行為を行っているものであろう。推測するしかないが、それは「『ない』ということを信じたい」ためではないか。「ある」ということにしていると、不安だからではないか。
○本日の、全国の新規感染者数は、二六三七人(前週比-一三五三人)。
そのうち、東京は、六三三人(前週比-三五三人)。
新規感染者報告が減っているが、以前も日記に書いたように、陽性者の報告に対して追跡調査を行っていないのであれば、以前のようにおおくが報告されるわけではないので、感染状況が改善されたという指針にはなりえない……と考えるのも、あるいは、「感染は終息していない」と考えたいという、ぼくにとっての都合のいい「現実認識」である可能性は、じゅうぶんにある。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣ギ画」(https://chojugiga.com/)