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コロナ渦不染日記 #74

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十一月二十一日(土)

 ○朝、起きると、妹うさぎが姪うさぎに朝食を与えている。
 姪うさぎは、最初こそ、吸う力が弱かったために、中身が出やすい乳首を搭載した哺乳瓶でミルクをとっていたが、いまは成長して、直乳に移行している。しかし、そうなると、こんどは「授乳」に対する甘えが生じたのか、なかなか妹うさぎの乳を離れようとしない。しかし、直乳だけでは空腹が満たされないのだろう、むずかることになり、そのむずかりが授乳への甘えにつながる。
 悪循環といえば悪循環だが、思えば、このような循環は、知性生物の欲望の根源であるかもしれない。母こそ他者依存の根源であるのかもしれない。「Mother is first other」とはよく言ったものだ。

 ○その姪うさぎも、今日で、うさぎ穴を離れ、妹うさぎと義兄弟うさぎの家へと移ることになった。といっても、伯父であるぼくたちは、見送る役目しかないので、それを除けば、いつもの週末である。
 もちろん、姪うさぎとは、しばらく会えないことになる。この災禍のためでもあるが、そうでなくとも、伯父と姪の関係など、このようなものであろう。
「さよならだけが人生さ」
 と、相棒の下品ラビットが、井伏鱒二の訳詞を引用した。
「せいぜい、今できることをしてやろうぜ」
 身づくろいのために、風呂場へむかった妹うさぎと入れ替わり、腕に抱いた姪うさぎは、はじめてそうしたときに比べ、あきらかに重たくなっている。時が、意思が、こころが、姪うさぎのなかに宿り、芽生え、育ち、物理的な血肉となっているのである。あやしながら、その顔を見下ろすと、ときおり口角をひきつらせ、笑うかのようである。

 ○笑う、とは、いったいなんだろう。あるものは、恐怖への反応だという。あるものは、力へのおもねりであるという。あるものは、絶望への抵抗であるという。あるものは、優位の誇示であり、ときには、自己の優位を確認することであるという。
 いずれにしても、笑うとは、他者を意識してのものである。知性生物は、他者にむけて笑うのであり、他者からの笑いに反応せざるを得ない。たとえ他者にむけたものでない笑いだとしても、それは他者にむけた笑いの残響であるか、自己にむけたものであろう。
 かつて、友人に、「おまえは、みんなといるときは、始終ニコニコしているのに、ひとりで歩いているときは、ひとでも殺しそうな顔をしているぞ」と言われたことがある。そのときはたいそうおどろいたものだったが、あとになって考えてみると、なるほど、それは、自分が他者を意識しているかどうかの差であったのだ。目のまえに友人のいないとき、ぼくは他者を意識しておらず、したがって、笑う必要を、無意識にでも、感じていなかったのである。
 では、赤子は? 赤子はいつから笑うのだろうか。姪うさぎは、すでに他者を意識しているのであろうか。そうではないかと思う。たとえ自分以外に、匂いと、音と、光と、ぬくもりしかない世界だとしても、自分を中心に世界をとらえたとき、そこには匂いの有無があり、音と光とぬくもりの有無がある。その有無をスイッチする要素こそ、他者に他ならないと、「他者」という言葉や概念を持つ以前から、われわれ知性生物は関知しているのでないかと思う。そして、その、有無をスイッチする「他者」の、最初のひとりこそ、「Mother」ではなかろうか。母がいれば、笑う。母のようなものがいれば、笑う。そうして、他者がいれば笑うようになるのではなかろうか。

 ○だが、その他者とも、いずれ離れることになる。ふたたび会うこともあろうし、そうでないこともあろう。眠る姪うさぎの顔に、顔を寄せると、遠い日に、死んだ祖母うさぎの顔に、いまとおなじように、顔を寄せたことが思い出された
 他者の生死は、その心のなかとおなじく、他者にとっての他者であるぼくには、うかがいしれないことである。いままで笑いあっていた相手が、背をむけたときにはもう、この世のものではないかもしれない。次にあうことも、ないかもしれない。そして、それは、他者であるぼくには、あずかり知らぬことである。自分の一秒先ですらわからないわれわれに、他者の運命など、「人智の思いも及ばぬこと(There are more things in Heaven and Earth)」なのである。
 だから、あのとき、これからはもう二度とあえないのだと思えた祖母うさぎと、いま、これからはぼくのあずかり知らぬところで生きていくだろうと思える姪うさぎとは、ぼくのなかでおなじものである。

 ○鼻先ににおいを感じたので、姪うさぎをベッドに寝かせ、おむつを取り替えた。脱糞していたのである。
 おくるみを戻したところで、妹うさぎが戻ってきた。義兄弟うさぎもやってきて、両親うさぎも車に乗りこみ、慌ただしく出ていった。

 ○そして、夜。
 ぼくはひとり目覚めている。となりに寝ているはずの下品ラビットのいびきがうさぎ穴にこだまするばかりである。そっと穴をぬけ出すと、冬の夜気ははっきりと寒い。もう真夜中はすぎたに違いない。ぼくは冷たく乾いた草むらにあおむけに寝ころんだまま、月のない、星どもがまばらに散らばるだけの真っ暗な夜空を見あげている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があの淋しい空にたったひとりただよって、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。夜空というやつは、以前から、永劫だの混沌だの、孤独だの断絶だの、欠損だの無限だのということを考えさせるので、どうにもたまらなくなるときがある。それでも、あおむいているものだから、いやでも夜空を見ないわけにいかない。まばらに光る星のなかに、紅い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星がある。

流れ星が尾を曳[ひ]いて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫れみをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判ったような気がした。師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命[さだめ]をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡[ほろび]の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智[ちえ]や愛情[なさけ]や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎[じっ]と愍[あわ]れみの眼差しを注いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寐[ね]ておられる師父の顔を覗き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。

――中島敦「悟浄歎異」より。
太字強調は引用者)

 乾いた空気に、甘い、たばこの匂いがした。起き上がると、下品ラビットが火のついたたばこを手に立っている。かがみ込んできて、たばことライターを差し出してきたので、受け取って一本火をつけた。煙だか呼気だかわからない白いものを吐き出すと、おなじように白いものを吐き出した、下品ラビットの口元が、にやりと笑った。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、二五九二人(前日比+一七〇人)。
 そのうち、東京は、五三九人(前日比+一七人)。
 今日から連休ということで、人出が予想されることから、東京都などは「我慢の三連休」などといっているが、しかし、そんなことを言って、さて、みんながそれに従えるかというと、これはなかなかに首肯されざるところであろう。息ぬきもしたいし、稼がねばならないし、生活様式を新しくするなど、おっくうなうえに、どうしていいかもはっきりしないとなれば、それまでどおりに行動するよりほかにないからである。

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十一月二十二日(日)

 ○朝、コーヒーとサンドイッチで朝食をとって、そそくさと『文学フリマ』に出かけた。開場の三十分前には、長くなり始めた待機列に並んだものである。

 この災禍のなか、「アルトヴァリエ」、「おもしろ同人誌バザール」、「デザインフェスタ」と、クリエイターイベントに参加してきたが、三件とも一般参加も有料であり、それだけに、感染症対策はしっかりととっていた。ひるがえって、「文学フリマ」は、一般参加は無料であり、もちろん、無料だからといって感染症対策を怠っているなどということはないだろうが、さて、実際はどんなものだろうと考えていた。
 結論からいうと、「文学フリマ」の感染症対策は、これまで参加した三件に匹敵する、しっかりしたものだった。入場待機列の指示、検温、アルコールによる除菌はいうにおよばず、接触確認アプリ「COCOA」のインストール確認をしたり、参加者にシールを配布し、対策をとっていることをアピールできるようにしたり、会場内人数を把握して入場制限をかけるなど、ここ一週間の新規感染者増加をかんがみても、準備できるかぎりの対策をとっているように思われた。

 これから寒さが増してきて、大気が乾燥してくれば、感染症流行の季節となる。かといって、人々が出歩くことをとめられはしないだろう。緊急事態宣言の発出もできかねるだろうし、せいぜい営業自粛を呼びかけるていどであろう。となれば、事業者が感染症対策をしっかりととり、客や参加者に徹底してもらうよりない。そして、どこまでも他人事な、日本人の心性が変わらないのであれば、事業者の負担が増すことを前提に、せめて国からの補助や、客や参加者からの理解や、値上げの肯定をすべきではないかと愚考する。

 ○さて、「文学フリマ」に話を戻せば、一時間ほどの滞在に、おおいに収穫があった。
 まず、なによりも、「ことばを使ってなにかを表現したい」という意思が、これほどまでに集まっている場を、ひさしぶりに感じたことである。いうまでもなく、ぼくの好きな分野は、ことばを使うことである。好きこそもののなんとやら、なのか、下手の横好きであるのかはさておき、「ことば」というものに思い入れの強いうさぎであるから、そうした同好の士が集まっている場にいるだけでも、なんともうれしくなるのである。まして、「おもしろ同人誌バザール」では、おおくある要素の一部であった「ことば」「文学」が、これほどフィーチャーされているのは、個人的にたまらないことである。
 そして、開場前から並んだのは、今回のめあてである、ウィリアム・ホープ・ホジスン『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を手に入れるためであったが、まんまとそちらをせしめた際に、合同サークルで配布されていた、「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんによる、『奇妙な味の物語ブックガイド』も入手できたのが、想定内と想定外の合わせ技として、望外の収穫であった。

 前者は、『異次元をのぞく家』や『ナイトランド』で、人類のそれまで積みあげてきた知見を、時間的・空間的に飛び越えた、「宇宙的パースペクティヴ」を背景に持つ恐怖を提示して、ラヴクラフトの提唱する「宇宙的恐怖[コズミック・ホラー]」の嚆矢となった作家の、本邦未紹介短編を、私家翻訳したものをまとめた作品集である。商業出版では、こういうものを気軽に出せないのは、しょうがないことなのであろうから、同人誌、ZINEで、こういうものを出す意義があるというものである。
 後者は、ホラーや怪奇幻想のいちジャンルである、「奇妙な味」の作品を紹介したものである。これも、いちジャンルではあるものの、サブジャンルというあつかいになるので、商業出版では、一冊まるまるを費やして、おおきくとりあげるにはいたらないものである。同人誌、ZINEならではのものといえよう。

 ○さらに、めあてのものを入手してから、会場内を散策しても、想定外のおもしろそうなものがたくさん目についてしまう。この、セレンディピティのよろこびも、会場に足を運ぶことの収穫であろう。
 林キキ氏の『蛙化現象』は、そのひとつである。表紙のインパクトにつられて、足をとめ、林氏と話してみると、いろいろと面白い話がきけた。

「蛙化現象」とは
好意を寄せていた人が自分に振り向いた途端、生理的嫌悪感を感じてしまう現象。

 とは、上記のBOOTHのページからの引用であるが、こういう概念が、若い女性のあいだで共有されているらしいということを、林氏から聞けたことじたいが、著書を配布されるのに勝るとも劣らない楽しみである。
 また、Twitterでよくお見かけしていた、翻訳ペンギン氏のサークルを発見し、『翻訳編吟 ~翻訳はおもしろい』の四巻をいただきながら、しばし、話しこんでしまった。

 現在、七巻まで制作されている、『翻訳編吟』のなかから、四巻を選んだのは、翻訳ペンギン氏とお話するなかで、「M・P・デア」という作家について聞いたからである。オカルト研究家で、霊感があると自称して、晩年、務めていた書店での窃盗があかるみに出ると、服毒して自殺したという人物なので、そもそもの世に出た作品じたいが、両手に満たない数であるという。ここで出会わなければ、知ることのなかった人物であると思い、手に取った。こういう出会いも、収穫である。
 最後に、オリジナルゲームブックを制作している、「FT書房」さんのブースを見かけたので、新刊の『怪物狩猟』をいただいた。

 かつて、社会思想社から翻訳出版され、一世を風靡した、「ファイティング・ファンタジー」シリーズにはじまる「ゲームブック」は、コンピュータRPGの発展により、商業的な価値を見いだされなくなっていった。しかし、商業的な価値だけが、文化の価値ではない。むしろ、商業的な価値と隔たったところに、文化の価値があるとするならば、ゲームブックが生き続ける場所は、個人のつながりによって保たれる、同人誌イベントなのだろう。

 ○持ち帰ったのは以上であるが、ほかにも興味をそそられたものはおおくった。そして、自分たちも、なにか作ってみたいと思うようになったのも、収穫のひとつとして、無視できないものである。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、二一六六人(前日比-四七六人)。
 そのうち、東京は、三九一人(前日比-二〇二人)。
 この大幅な減少が、すでに異常事態であることを示しているように思う。


十一月二十三日(月)

 ○連休最終日であるが、特にこれといった予定はない。むしろ、なにもしない日として想定していた。

 ○ホジスン『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を読む。

 このたび、この作品集を制作された、田中重行氏の翻訳は、手堅く、意味のわかりづらいところもなく、安定したものであった。自分もまた、翻訳をしてみているから、このクオリティを保つのに、どれだけ神経をつかうことか、察せられる。すばらしい偉業である。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、一五一八人(前日比-六四八人)。
 そのうち、東京は、三一四人(前日比-七七人)。



→「#75 (奇妙なポーズをとる)」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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