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抽象的なものを「失う」こと/黒暗中国語④

「黒暗中国語」の第四回になります。
今回は中国の「失去 shīqù」を取り上げて、抽象的なものを「失う」とはどういうことかについて考えていきます。

「黒暗中国語とは何かについては以下の記事を参照。

「失去 shīqù」の意味

(知覚・理知・信念・自由・効力・時効・機会・身内などを)失う;なくす。(白水社『中国語辞典』)

例文

1. 人类失去了理智,也失去了未来。
Rénlèi shīqù le lǐzhì, yě shīqù le wèilái.
人類は理性を失い、未来も失ってしまった。

2. 越是在意的东西,就越是害怕失去。
Yuè shì zàiyì de dōngxi, jiù yuè shì hàipà shīqù.
大事に思っているものほど、それを失うのが怖い。

3. 新冠病毒的流行让我们失去了“日常”。
Xīnguān bìngdú de liúxíng ràng wǒmen shīqù le “rìcháng”.
新型コロナウィルスの流行によって私たちは「日常」を失った。

例文解説

1. 「理智」とは理性と知恵のことである。日本語に訳される時は「理知」と訳されることが多いが、この例文のように、単に物事を合理的に判断する能力を失ったという意味で「理性」として訳すことが適切の場合も多い。

2. 「在意」は辞書的には「気に留める」、「気にかける」といった意味だが、この例文の文脈においては、「失うことを恐れるほどに気にかけているもの」ということなので、「大切なもの」「大事に思うもの」といったニュアンスで理解できる。

3. 「コロナウィルス」は中国語では「冠状病毒」となる。新型コロナウィルスは新型なので、「新(型)冠(状)病毒」となる。「日常」と「失去」は一緒に使われることは本来あまりなく、だからこそ「””」をつけているのだが、新型コロナウィルスの流行を経て、「日常」というものはどんどん抽象的で、理念的なものとして考えられるようになったという意味で比喩的に言うことができるだろう。「日常」は「失われたもの」となってはじめて、「失われるもの」という性質を獲得する。

コラム

「失去」という言葉は、「失う」という日本語とほぼ同じ意味だが、中国語では抽象的なものに使われることが多い。日本語の「失う」は具象的なものと抽象的なものの両方に使えるのと違って、主に「失去理智、失去爱情、失去希望、失去信心、失去知觉、失去效力」といった使い方をされる。

何かを失う、なくすということは、それまでにすでにそれを獲得していて、手にしていることを意味する。家を失う、お金を失う、友だちを失う、家族を失うなどと言うためには、家、お金、友だち、家族を持っていたことが前提となる。そのことに関しては疑う余地がない。そして、その「何か」は実体を持つモノや人という像(イメージ)で捉えられていることが多い。手に持ったり、特定の場所に置いたりでき、身の回りで活動しているというふうに想像されるのだ。

しかしながら、抽象的なものを失うというのはどういうことだろうか。

「理性を失う」ということは、理性が何か実体を持っているようなモノだということを意味しない。理性とは物事を正しく判断できる心的状態または能力として考えた場合、私たちが失うことができるのはモノではなく、能力や状態ということになる。

別のケースを考えてみよう。
ある者はそれまではきわめて「情熱的な」人間だと思われていたが、理性を失ったというほどではない。しかし、その者を取り巻く状況が変化し、彼の情熱的な振る舞いが「理性を失った」状態として見られるようになった。この場合は同じように振る舞っていたにもかかわらず、「理性を失った」と言われてしまうのである。

愛に関してはどうか。それを定義することはできないが、少なくともモノではない。それは変化するし、自分が愛だと考えていたものが相手にとっては迷惑であったり、暴力であったり、恐怖でさえあったりする。

希望や自信などに関しても同様である。自分が希望を託していたものが絶望をもたらしたというような時は、私たちは希望を失った(「我失去了希望」)と言ったりするし、それまで自信満々だったが、誰かの否定的な言葉によって自信を失ったと言ったりもする。しかし、希望を託していた対象=モノが絶望をもたらした対象=モノと同一のものだった場合も考えられるし、自信の場合は自分に対する信頼/不信という点で対象はまったく変わっていないと言える。

つまり、それらを実体的な何かを失ったという像でそれを捉えるべきではない場合もあるということだ。

そもそも、理性とは何か、愛とは何か、希望とは何か、自信とは何かについては(簡単に)定義することはできない。それらは文脈によって完全に変わってしまうこともあるような、流動的で不安定なものである。理性的だとされていた行為が実は単に共感の能力が欠如していたからだったり、愛だと思っていた感情がただの共依存だったり、自信を持っていたと思っていたがそれはむしろ自分自身に対する不安を隠すためのものだったり、希望をもたらすと思っていたが絶望の幕開けだったりすることは(私たちが思っている以上に)日常茶飯事である。

それを「失去(失った)」と言うまさにその行為自体によって、私たちは遡及的に(「後出しジャンケン」的に)それは確かに存在していたという幻想を作り出している場合が意外と多いかもしれない。

新型コロナの流行で私たちはしばしば「日常を失った」という言い方をする。しかし、その日常とはそもそもあったのか、それがどんなものだったのか、本当に一貫していて、私たちの生活を支えていたようなものだったのかを改めて問われると、簡単には答えられないのではないだろうか。むしろ、そのような問いを掘り下げて考えていくと、私たちが取り戻したいと思っている日常は実はとても退屈なものだったり、おぞましかったり、私たちを窒息させるようなものだったりすることもあるのではないだろうか

言い換えれば、今の「緊急事態」はむしろ私たちの日常自体の影に潜んで、それを支えていた「何か」を明るみに出しただけだったのではないかと問うこともできるのではないか。

また、例文1の「未来を失う」という言い方を見れば明かだが、私たちはそもそも「未来」をあらかじめ持っているわけではない。私たちの歴史を見れば、理智を失ったとしても未来は相変わらずやってきたことがわかる。

私たちはその「理智を失った未来」の真只中にいるし、これからもますますそのような未来に翻弄されつづけるだろう。

つまり、私たちは「失去」という言い方で実際に言っているのは、私たちはそもそもはじめから何も持っていなかったという事実ではないだろうか。そして、この事実はその響きほど悪いものではないのかもしれない。

ジョン・ケージの言葉をもじって言えば、私たちが失ったものの量はいつも多すぎず少なすぎず、「ちょうどいい量」なのかもしれないのだ。

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