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項飆『方法としての自分』/現代中国の思想を読む②

はじめに

今回は2020年に中国でたいへん話題になった、人類学者の項飆(シャンビョウ)のインタビュー集『把自己作为方法:与项飙谈话』(上海文艺出版社,2020 年)を読んだので、その内容を簡単にまとめてみたい。

項飆は1972年浙江省温州市生まれで、現在イギリスのオックスフォード大学の社会人類学の教授である。

著作一覧は記事の最後に載せてあるが、彼を一躍有名にしたのは北京郊外で温州出身の商売人たちのコミュニティ「浙江村」を参与調査した民族誌である。この仕事をしたのはまだ大学の学部生の時で、その時から北京大学で伝説となっていたという。

この仕事がきっかけとなって、中国だけでなく、海外の研究者の目にもとまり、英語があまりできなかったにもかかわらず、ケンブリッジに留学する機会を得て、現在の職に至る。

項飆は近年中国で各メディアで引っ張りだこになっていて、論考やインタビューが出るたびに話題になっていた。「知識人」というものに対してかなり批判的であるにもかかわらず、現に公共知識人として強い支持を受けているのである。

日本でも人気の中国SF作家の陳楸帆も『方法としての自分』を高く評価し、愛読している。


では、なぜ彼は中国でこれほど人気なのか。

人気というと何か良くないイメージがあるので、言葉を変えたほうがいいかもしれない。つまり、なぜ彼は公共知識人として、世界に対してなんらかの導きとなるヴィジョンを提供していくれる者として期待されているのか。

このインタビュー集を読んで、その理由はおそらく彼が中国と世界の現実に対して、典型的な中国の知識人が使うような空疎で無機的で抽象的な言葉ではなく、自分の経験に即した、つまり「自分を方法とした」、有機的で、直接性を持つ言葉を使っているからだという印象を受けた。

実際彼自身もそのことを強く訴えている。

さっそく本の内容に入っていきたいと思うが、インタビュー集の性質上、論点が多岐にわたっており、必ずしもまとまりがあるわけではないので、ここではいくつかピックアップして、本書のみならず、彼のほかの論考やインタビューも適宜に参照しながらその核となる思想の輪郭を描き出したい。

「郷紳」という方法

彼は自分の小さい頃の生活が三重の世界に分かれていると述べている。一つ目は社会の下層のコミュニティの世界。二つ目は祖父母の没落貴族の世界。そして三つ目は学校に行った後の正統な言説、つまり共産党の公式イデオロギーの世界。この生活の三重化は彼に「生活の差異性」を意識させた。

言い換えれば、生活というものは隅々にわたって均質的なものではなく、さまざまな差異や矛盾を抱えている、複雑なものだという意識である。

彼は知識人(知识分子)の家庭で育ったにもかかわらず、知識人的な言説をひどく嫌っている。とくに八〇年代中国の解放的で啓蒙的な言説に対して高校の時から強い違和感を抱いていた。そのような言説には、誇張や断論的なものが多く含まれていて、彼からすると浮ついたものであるように感じられたのである。

そのような知識人に対して、彼はどちらかというと社会の下層に属する「郷紳」というものに強く惹かれていて、自身も郷紳気質を持つ社会研究者だと考えている
この郷紳に対する評価にこそ彼の独自性がある。

では、郷紳とは何か。

彼は自分の母方のおじさんを典型的な郷紳として例に出す。彼のおじさんは身近の物事に対して明確な「ヴィジョン」(中国語では「図景」)を持っていて、それを体系的に語り、物事の間の関係性をクリアに示すことができる。また、農村では、その村の出来事をすべてはっきりと、体系的に説明することができる人が必ずいる。

これは簡単そうに見えて、実はとても難しい。今の中国の若者たちが自分たちのクラスや学校のこと、その体系はどのようにまわっているのか、基本的な権力構造はどのようなものか、誰がどのような動機を持っているのかについて語らせてもできない人が圧倒的に多い。

つまり、郷紳というのは、自分が生活する小さな世界やコミュニティについて興味を持っていて、意識的に自分の言葉で自分の生活について語ることができる者たちであり、彼らの記述は何か外的な理念や概念の力を借りたものではなく、内在的に生成されたものであるという意味で独立的な記述となっている。それは分析ではなく、あくまで記述である。

郷紳は故郷ではリーダー的な立ち位置にあるが、首都や大都市に行って官僚になることを望まない。なぜなら、彼の生活する小さな世界こそ、彼という存在の意味を構成するものであり、価値を内在的に提供するものだからである。

郷紳は人々の生活が実際にどのようになっているかに関心を持つという意味で実証的であり、同時に生活の意味という問題に関心を持つという意味で倫理的な存在である。

この郷紳に対する項飆の評価は、もしかしたら保守的で反近代的なものだという印象を持たれるかもしれない。しかし、以下に詳しく述べるように、現在の状況を反省し、相対化するための論理としてかなり有効であることも認めざるをえないだろう。

「宙吊り」の若者たち


中国の現状を説明するために、彼が提起した有名な概念に「懸浮」というものがある。文字通りの意味としては「浮遊している、地についていない、宙吊り」などがあるが、ここでは「宙吊り」ととりあえず訳しておきたい。

現代中国の若者たち(に限らないが)に顕著に現れている問題の一つに、誰もが経済成長という背景の中で経済的な成功を必死に追い求め、努力しているにもかかわらず、誰も自分の生活の形式と意味、公共性の問題などに目もくれず、まったく考えようとしないことがある。

例えば、農民工(農村からの出稼ぎ労働者たち)は頻繁に仕事を変えることに項飆は注目する。

彼らは一つの仕事でなんらかのトラブルに遭遇するとすぐにやめて、別の仕事を探すのだが、その際に経済的な損失を被る(一ヶ月分の給料がなくなる)ため、明らかにその場でトラブルを解決したほうがコストがかからないのにもかかわらず、彼らはみな転職という方法を取る。

その理由として、彼らは農民工なんてとっととやめて早くお金を貯めて別のことがしたいため、農民工として直面した問題を、雇用者と話し合いをしたり法的な手段で自らを守ったりすることで解決するという道を選ばずに、転職という形で問題を解消させる道を選ぶ。

しかしその結果として、彼らの労働環境はいつまで立っても改善されず、そのせいでどこに行っても同じ問題に直面するため、結局ずっと農民工を20年も30年も続けてしまうのである。

この例で明らかになった問題としては、彼らは誰よりも必死に努力して働いているが、誰もが自分のいる労働環境とコミュニティに対して関心を向けず、金稼ぎという未来の目標のために現在を蔑ろにしていることである。

努力するのはお金を稼ぐためであり、お金を稼ぐのはここから離れるためである。彼らの努力はすべて〈いまここ〉の否定のためになされている。否定的な論理が連鎖していることがわかる。

〈いまここ〉の生活とその意義が宙吊りにされ、絶えず未来に先送りにされている。そして、〈いまここ〉の問題を解決しない限り、この先送りはその未来がなくなるまで続くことになる。


このような〈宙吊り〉はもちろん農民工にかぎらず、中国全体の問題として存在している。中産階級の教育熱、起業熱、出国熱などを見ても問題の根っこが同じだ。いまの生活における快楽や幸せに犠牲にして勉強するのはいい成績を取るためであり、いい成績を取るのはいい学校に行くためであり、いい学校に行くのはいい仕事につくためであり、いい仕事をつくのはいい生活をするためである。

いまの生活を否定するのはいい生活のためであるが、そのいい生活と何かは明確にされていない。すなわち、いま何をしていても、それ自体に意味がなく、すべて未来の目標のための手段でしかないが、目標自体が確定されたものではないため、その本質は未来の追求というより、現在の否定でしかない。

比喩的に言えば、現在は不確定な未来のための石油エネルギーのようなものとして収奪され、還元され、管理されているのである。そして、それは不可逆的なものであるという点においてもエネルギーと同じである。

文化大革命はいかなる意味で悪なのか


郷紳的な方法はまさにこのような「宙吊り」の状況に対する解決法の一つとして提示されている。

郷紳は何よりも反知識人としての特徴を持つ。

知識人は理念や理論、世界全体の認識について語るが、その内容はとても空疎なものである。すなわち、彼らは学んだ知識や概念をもって断片的な事実を大雑把な形でまとめ上げているにすぎない。そこには彼ら自身の経験が反映されていない。誰の経験も反映されていない。その証拠に彼らの用いる概念や理論はみな似通っていて、結論もだいたい同じようなものになっていることが多い。

そのような方法では世界の複雑性を掬い上げることはできない。

例えば、「文化大革命は悪か」ということについて考えてみよう。そんなの悪に決まっている、というのは一般的な反応であり、この問いを発すること自体スキャンダラスなものだと感じられるだろう。

しかし、その文化大革命が悪だという時、私たちは具体的にどのような事柄を思い浮かべているのか。知識人の批判大会、紅衛兵たちの暴力、焚書、文化財の破壊、武力闘争などだろうか。

これらは間違いなく悪だろう。文化大革命の時に実際に起きていたことであるのも疑いの余地はない。しかし、これらの悪はすべて結果である。そのような悪に至るまでの目的、過程、葛藤や矛盾はこのようなイメージにまったく含まれていないという意味で、十分に複雑ではない。

問題はなぜこのような悪に至ったのか、そこにどのような人々の経験が存在するのかということが重要である。

例えば作者の別のおじさんの話がインタビューの中で言及されている。そのおじさんは彼の父が右派として分類されてしまったために、大学に受かったのにもかかわらず進学できず、その後の人生も大きく狂わされた。すなわち、我々がさまざまな史実から知った文革の悪の影響を強く受けた者である。

しかし、おじさんは作者に対して、「文革は完全に間違っていたわけではない。一部の幹部が六〇年代にはすでに高級自動車に乗って、革靴を履き、お腹がどんどん大きくなっていたのだ。毛沢東はこのままではいけないと思っても、ほかに方法がなかったから、民衆を動員するしかなかったのだ」と語っている。

ここで彼のおじさんは「文革は完全に間違っていたわけではなかった」と語っていて、政治的に正しくないが、問題はそこではない。
重要なのは、文革は何か間違ったことを正そうとして、結果としてその間違ったことよりも深刻な悪を引き起こしたということである。おじさんからすれば、文革はギリシャ的な意味での典型的な悲劇である。そこには矛盾が存在していること、いろいろな問題が衝突しあいながら、複雑に絡み合っていることが重要である。

文革を実際に経験し、その悪の影響を強く受けた彼のおじさんが自分の経験に即して文革の複雑性もしくは悲劇性を取り出している。そのような認識は例えば現在の中国の官僚化を考える際にも役に立つかもしれない。

というのも、文革の悪としての複雑性が無視され、単純な悪としてのイメージが流布された結果、その問題が宙吊りにされたまま現在にまで残ってしまっているとも考えられるからだ。

したがって、項飆の目的は文化大革命を肯定するとか、再評価しろということでは決してなく、文化大革命が示す問題系の複雑性について経験に即して解像度をあげて向き合うことが目指されているのである。

注意すべきは、まず反知識人は反知性主義とは異なるということである。反知識人としての郷紳は、根本的に別の種類の知性である。それは多様な知性の存在を要求する。
そしてもう一つ、郷紳を評価することは、故郷にとどまれとか、仲間の小さな世界を大事にしろとかそういうことを意味しているわけではないということである。これについては次の節で詳しく述べる。

郷紳は実体的な身分ではなく、あくまで「方法」として示されている。

これは「方法としての自分」ということとも関わってくる。

方法としての自分

方法としての郷紳の際立った特徴とは、自分の属するコミュニティを全体として把握し、それを体系的かつ具体的に記述したり、説明したり、さらにそれにもとづいてコミュニティを調整したりすることである。郷紳はそのコミュニティという小さな世界を明確なヴィジョンとして示すことができる。

上にも出てきた「ヴィジョン」という言葉は中国語では「図景」となっている。項飆の提案としては、理論というものはヴィジョンのようなものでなければならないということである。

ヴィジョンとしての理論は単に世界に対して何らかの判断を押し付けるものではなく、世界を正確に描くものである。この「正確に」というのは、精密にとか、隅々まで具体的に描くということだけを意味するのではなく、その未来における方向性、傾向性のようなものも描き入れることを意味する。

したがって、ヴィジョンには2つの意味がある。一つは現在の概況、もう一つは未来における方向性である。それによって、そこに内在する潜在性や矛盾を把握することができるようになる。

そして、そうしてはじめてより広い世界を考えるための足場が作られる。
自分の経験と直接つながる理論=ヴィジョンがなければ、より広い世界を見るための足場がなく、文字通り「宙吊り」にふわふわと概念の言葉の雲の中で漂い、無視界飛行を強いられることになってしまうのである。

すなわち、郷紳的な方法とは自分の属する小さな世界の全体像を、自らの経験を通して把握することで、より大きな世界における自分の位置づけと未来の方向性に対する思考を可能にするものである。

自分の身の回りの出来事と人々、そこで得た経験をベースにして世界を観察し、記述し、思考する。そのようにしてはじめて、理論的な言葉と自分の経験が乖離しない形で何らかのヴィジョンが生まれてくる。

例えば、私が中国生まれの日本育ちのバイリンガルとして自分の小さな世界を考えることは直ちに「グローバル化」や「移民」といった概念が想起されるが、それをより解像度をあげて、私の出身地である中国東北地方の改革開放後の動き(大規模なレイオフなど)、それに伴う海外への移民ブーム、かつての満州国の中心地だったという事実、親が経験した政府内でのいざこざ、教育市場の急速な成長など私と私の親、さらにその親の世代の経験と合わせて考えることができる。

それが足場となって、いわゆる「グローバル化」という言葉の空虚さを乗り越えて、より現実的、具体的、直接的にそれについて考えることができるようになる。

まとめよう。
現在の自分の生活を未来のために宙吊りにしないこと。より大きな世界に関する言葉のために自らの経験に即した言葉を宙吊りにしないこと。すなわち、自分の生活を真剣に捉え、それを方法=足場として世界と関わることこそ重要である。

言い換えれば、郷紳とは大きな世界の言葉の中で自分を見失うことなく、かつ自分だけの言葉に閉じこもることもない、中間的な存在である。

これこそ「方法としての自分」というタイトルの意味であり、作者が自らの中心的な思想として示そうとしていることだと思われる。


「真実-虚偽」とポスト・トゥルース


自分の経験に即すということに関して項飆は面白いことを言っているので、最後にそれに基づいて少し展開したい。

例えば、わたしたちは「真実」「虚偽」といった言葉を使うが、それぞれ異なっているということに実は気づいていない。
「真実」という言葉に関しては、「真」は「偽」と対立しているのに対して、「実」は「虚」に対立している。
すなわち、「真実-虚偽」は、「真偽-虚実」という2つの対立をごちゃまぜにした曖昧な二項対立だということだ。

したがって、「真」でありながら、「虚」であることはありうるし、「実」でありながら「偽」であることがありうる。


「偽」の言葉を話そうと思うためには、まず「真」の言葉を知っていることが前提となる。真か偽をわかっていなくて何かを話そうと思ったら、その言葉は「虚」となる。

そこで考えたいのは、ポスト・トゥルースが叫ばれる現在の問題は「偽」の言葉の氾濫ではなく、「虚」の言葉の氾濫なのではないか、ということだ。

例えば「ポリコレ」について考えてみよう。

「在日中国人を差別してはいけない」というのは政治的に正しい言葉として「真」である。差別主義者でもなければ、これに意義を唱える人はあまりいないように思う。しかし、ただその言葉を言っているだけで、具体的に何をどうすればいいのかまったく考えておらず、ただ言葉を繰り返しているだけだとすればそれはただの「虚」となるだろう。

また、「在日中国人を差別してはいけない」という言葉を字面通りに実行して、あらゆる攻撃的な言葉を禁止するとなるとどうなるか。私自身としては、親しく信頼できる友人に、その信頼関係を共有したうえで、冗談で「このクソ中国人が」と言われるのを許容するし、場合によっては信頼関係を強化するために歓迎もするだろう。しかし、それも政治的に正しくないとして却下するとすれば、それは「虚」となるだろうし、関係性の多様性が損なわれるだけでなく、そこでは在日中国人としてのわたしの主体性がないがしろにされているのである。

逆に、ポスト・トゥルースの時代を代表する者たちは、デマや間違った情報を伝えているとしてその言葉は「偽」となるだろう。しかし、彼らは「偽」を信奉しているわけではなく、その言葉の背後に「実」となる感情と社会的な不平等などがあり、彼らは自分の問題を解決するための方法と言葉を見つけられずに苦しんでいるかもしれないのだ。
ちょうど問題が起きたら転職を繰り返す中国の農民工たちのように。あるいは成績が自分のいい生活を保証すると信じている中国の若者たちのように。


つまり、ポスト・トゥルースの時代に、「真実」か「虚偽」といった単純な二分法ではなく、より経験に即した、「実」を見つめた、複雑性を掬い取るような思考法が求められている。

項飆によれば、その起点は何よりも郷紳的な方法で自分の周りの世界を探求し、その複雑性を掬い取ることにあり、そしてその考えは中国で支持されている。

これは前に『羅小黒戦記』に関する記事で述べた「複雑性との共存」ともつながる問題系であり、引き続き考えていきたい。

著作一覧


- “Making Money from Making Order: International Labor Recruiters and the Chinese State. Princeton University Press, forthcoming.
- Transcending Boundaries: Zhejiangcun: the Story of A Migrant Village in Beijing. Translated by Jim Weldon based on Kuayue Bianjie de Shequ(see below). Brill Academic Publishers. 2005.
- Global “Body Shopping”: An Indian International Labor System in the Information Technology Industry. Princeton University Press. 2006.
- 《跨越边界的社区:北京“浙江村”的生活史》,北京:三联书店,2000年。
- 《全球“猎身”:世界信息产业和印度的技术劳工》,王迪依据英文著作Global“Body Shopping”翻译,北京:北京大学出版社,2010年。”

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