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第八話 金玉取られたアントニオ

"サンクチュアリ"。看板にはそう書かれていた。
 三階の一番奥に小さな看板を掲げた店だった。
入り口には大阪府知事広保貴之の選挙ポスターが貼られているが、黒のマジックで大きく"✖︎"と上から書かれていた。
 ソ連崩壊後の東欧を彷彿させる飲み屋。
 バイオレンスが何よりの表現技法である東大阪においてそれほど珍しい光景ではないが、"平和な街"高槻で暮らしている丸井にとっては、ハンマーで殴られたような衝撃的な事案であった。
 優華は"✖︎印選挙ポスター"など見えていないかのようにサッと慣れた手つきで扉を開け、バイオレンスの脅威へと飛び込んでいった。
 丸井は恐る恐る店内に入った。
「物音ひとつ立てまへんで」といわんばかりに極度の内股で、なおかつ忍足。地域によっては日本変質者情報センターに報告されかねない歩き方は「高槻のティラノサウルス」と自称するも、周囲の人間からは「東海地方が産んだバケモノの子」「歩行器序盤」と揶揄されるほど奇妙なものだった。
 かつてその歩き方から阪急十三駅付近にて薬物常習者(ジャンキー)と疑われ、数人の警察官に取り囲まれて職務質問を受けた。「あなた何歳?身分証ある?」と警察官から問われ「よく晴れた日に生まれた。年齢は知らない。5歳でアフガンの少年兵として徴兵されて以来誕生日なんてなかった」と吐き捨て、身分証として残高なしの早見優テレホンカード"童貞とは道の途中"と書かれた扇子を差し出した所、婦人警官から「童貞は、道の途中で動き出さない人のこと。明日を見つめなさい。その内股でしっかり今を踏み切りなさい。」と言われ、泣きながら阪急電車に乗った過去を持つ。
 それ以来、彼は内股で生きることを決めたのだ。
 物音を立てぬよう、騒ぎ立てぬよう、はしゃがぬよう、ただ何事も起こらぬ未来を望み強く踏み切るはずの内股がひっそりと地面をスライドするだけだった。
「あら優華ちゃん。いらっしゃい、カウンターおいでよ」
 店主とみられる女性は、内股ですすすと忍者のように移動する丸井を一瞬見たものの、すぐ視線を優華に戻してカウンター席へと誘った。
 本能的に"見てはいけないもの"と認識されたのであろう。
「丸ちゃん、なにチンタラしてんのよ。金玉取られたアントニオの方がまだキビキビしてんで」
(※アントニオとはアニメじゃりん子チエに登場する猫の名である。かつては腕っ節の強い猫だったが、主人公チエの飼い猫である小鉄の必殺技"タマ潰し"で睾丸を潰されて以降、まっすぐ歩けなくなり、いつもいじめていた犬に噛み殺された)
 丸井は、名古屋生まれながらもじゃりン子チエを全話見ていたので、その一言を聞いた途端内股の太ももをギュッと閉じ、厳しい目で優華を見た。
「じゃかましわ。俺は忍者の末裔やから少しばかり昔の癖が出ただけや」
 強い言葉を吐き捨て、彼はカウンター席に乱暴に座った。
 席に座った2人の前に一本のボトルが出された。
ポスカで丁寧に書かれた"優華"の文字。
 その名の周りにはハートマークとアメリカンドッグなど女性らしいイラストが散りばめられていた。
 「丸ちゃん、水割りでいい?」
 優華は氷をグラスに入れ、いいちこを注ぎながら丸井に問いかけた。
「なんでもかまへん。帰られへんくらい濃い目で頼むわ」
 丸井はハイライトの煙と強気を吐き出しながら答えた。
「ふっ、童貞のくせに強気やね。ほなちょっと濃い目で行っとくわ」
 優華は悪戯な笑みを浮かべながら作った水割りを丸井の前に差し出した。
「おおきに。ほな、この悲しみの街東大阪市と我々との邂逅に乾杯」
 グラスを掲げながら、丸井は自分でも恥ずかしくなるくらい大きめの声で乾杯の音頭を取った。
 彼は恥じらいを隠すように水割りを一気に流し込んだ。
 その直後、液体を通した喉が悲鳴を上げた。
「ごほっ!なんやこれほぼ原液やないか!殺す気か!」
 丸井は今にも吐き出しそうな顔で優華に言った。
「帰られへんくらい濃い目がええんちゃうの?あんだけ意気込んでた丸井も、尖った角が取れてほんまもんの"丸"になってしもたなぁ。」
 挑発的な目を丸井に向けたまま、優華は目の前の水割りで口を濡らした。
「あほんだらが。ワシは天下一品の酒飲みやで?こんな酒、俺からしたら粉ミルクや。何をいうてけつかんねんドアホ。ちょっと可愛いからって」
 吐き捨てた言葉を飲み込むようにして、"それ"を口に運んだ。吐きそうな気持ちをぐっと堪え、飲み込んだ。
 ゆっくり飲むことで感じた新しい味に驚いた。
 いいちこは、強い存在感を示すことはないが、転校したての中学生が自己紹介を終えて席に着く前のあのピリッとした雰囲気のように、食道を通過し、胃に辿り着いた。鼻から抜ける香りがいいちこ自身が示す、"優しさ"のように感じられた。

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