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200年前を生きた新しいリーダーのお話。

リーダーと聞くと私達はついつい強いリーダーというのを想像してしまう。それは、強い力を持って、周りの人たちを引き連れる。グループの中では最も強い人だ。しかし、リーダーとはなにもそんな人たちのことだけを指す言葉ではない。

今日、紹介したいのは幕末という過去の時代に生きた、新しい形のリーダー像である。

その人とは、毛利敬親だ。



ん?誰それ?

ってなる方が多いと思います。しかし、何を隠そうこの人、貧困で困窮していた幕末の長州藩を改革し明治維新の雄藩にまで育て上げた当主なのです。

ここで少し、ちゃんと存在した人であることを証明するために、みんなが大好きな司馬遼太郎さんの書かれた「世に棲む日々」からの引用をご紹介しておきましょう。

「敬親に世界観がなかった、といえば彼に酷だろう。彼は彼自身独創力というものは持たなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それに生まれつき恐ろしく寛大であった」。「ある意味では、彼ほど賢侯であった人物は居ないかも知れない。彼は愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた

世に棲む日々: 司馬遼太郎  (黒字はやおきが勝手にそうしました)
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出典:https://www.touken-world.jp/edo-domain100/choushuu/


長州藩というのは江戸時代末期の雄藩であり、薩摩藩・土佐藩と並び、明治維新を推し進めた藩でもあります。また、山口県となった現在でも、歴代総理大臣を多く輩出していることからも当時の影響力が伺えます。

今回の舞台は、そんな激動の時代の超重要な藩のお殿様を務めたのにも関わらず、

全人類の99.99%の人(やおき調べ)が名前さえ知らない

というそんな人物のお話です。

ちなみに一つ言っておくと、私は幕末の時代があまり好きではありません。なぜなら、多くの人たちが殺し合うからです。意見の相違など、向いている方向が違うならまだしも、途中からはどちらも開国という同じ方向を向いていました。それなのに、殺し合っていたという時代を好きになれません。

なんであんなにも殺し合うのか。西郷隆盛は新しく国を作るには一度徹底的に潰さねばならないと考えたと言います。

その理屈は、全く分からないわけではありません。でも、、、、。でも、、、、、、。その過程でなくなった人たちのことを考えるといたたまれなくなります。

大きな正義の為には、人を殺してもいいのか。

そもそも何が正しいかなんて人間に分かるのか。幕末の時代が好きな方は多いと思います。新選組を始めとしてドラマチックでかっこいいストーリーがいっぱいあるから。歴史というストーリーとして見れるのであれば、たしかにかっこいいし、憧れるかもしれません。

しかし、私はどうしても素直にカッコイイとは思えないのです。もう少し平和的な解決方法があったのではないか。失わなくても良い生命が失われたのでは無いか。そうかんがえてしまうのです。

まぁ、それは頭の片隅に追いやって、早速、毛利敬親(もうり たかちか と読みます)についてみていきましょう。(ちょこちょこ出てくる方々は、ドラマなどで毛利敬親役を演じられた方々です。)

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北大路欣也、https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/997386、花燃ゆ

それにしてもなぜ彼は、ここまで人々に知られていないのか。それには、彼の人柄・リーダーシップ像が関係しています。彼の人柄がよく分かるもの、それは彼につけられたあだ名、

そうせい候

です。「そうせい」というのは、「そうしなさい」ということ。「候」というのは諸侯つまり各藩の大名を示した言葉です。このあだ名は彼が家臣の意見に対して意義を唱えない様子から名付けられました。

これを聞いたとき、優柔不断で何も決められない"なあなあ"なリーダーを思い浮かべたかもしれません。

しかし、そうではないのが彼の面白いところです。

まず、毛利敬親(以下敬親)は当時の思想家で若者の間で人気があった村田清風を起用し、内政を実質的にすべて任せていました。

このことから既に、穏健を望み古きを重んじるだけの人物でないことがわかります。また、基本的には村田を始めとする家臣に内政を任していたものの重要な決断に関しては自ら決断を下していたようです。まぁ、しかし、実際、歴史家の中でも意見が別れており、「幕末の四賢候」(福井藩第14代藩主松平慶永、宇和島藩第八代藩主伊達宗城、土佐藩第15代藩主山内豊信(容堂)、薩摩藩第11代藩主島津斉彬)には数えられていませんが。

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仲恭司 https://jmmaportal.com/taigadrama/taiga503730/

彼に関して語ることは、もはや殆どありません、何しろ「そうせい」といっていただけで、ほとんど何もしていないのですから。


試しに、毛利敬親の名言を探してみました。その結果がこちらです。

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https://bakumatsu.org/men/view/62  


驚きのnothing.

どうやら、名言などはない人物のようです。


敬親についてはネタ切れとなってしまったので、当時の長州藩の様子を見てい具ことにしましょう。当時の長州には、ご存知の通り吉田松陰を始めとする多くの「志士」たちがいました。

彼らは、時に過激になり、めちゃくちゃにも見えることをします。そんな彼らに共通して言えることは、毛利敬親を尊敬していたということです。例えば、高杉晋作が軍艦を奪ってクーデーターを起こしたときも高杉は敬親に危害を加える気は毛頭なく、安全を心配していたようです。

長州の志士たちは総じて活動的で、血気盛んです。そして、理屈っぽく、どちらかと言うと

伝統や組織よりも個人主義よりの考えをした人が多かった

と言われています。

幕末の2大巨頭といえば、長州藩に並んで思いつくのは薩摩藩でしょう。あの、西郷隆盛で有名な薩摩藩です。

しかし、長州藩と薩摩藩では全く色がちがったようです。

長州藩といえば、前述のように多くの人が思い浮かぶのに対して、薩摩藩と聞いて思い浮かぶのは西郷隆盛くらいです。(少し歴史が好きな人ならば、大久保利通も同時に思い浮かべることができるでしょう。)

薩摩藩は、どちらかと言うと西郷や大久保といった強いリーダーが何人かいて、その他大勢の人たちはあまり考えることなく(語弊がありそうですがw)、熱心に付き従っていたようです。

長州藩には、伝統や年功序列を重んじる当時としては珍しく、若者や実力のあるものを認め、育て上げるという風潮がありました。

例えば、藩は若者が藩から出て遊学へ行くことを奨励し、旅費や通行手形などを提供していました。日本という国だとはいえ、藩ごとに全く別の国のようだったとされる時代にそれを行っていたのは非常に画期的なことでしょう。

若い頃に脱藩した吉田松陰青年についても厳しく処罰することはなかったといいます。

若いんじゃけぇしょうがないじゃろ。

の精神なのでしょう。(突然の広島弁。まぁ、長州藩は現在の広島県にもまたがっていたので、あながち間違いでもなさそうです。)

年功序列ではなく、若い力を重んじる。この風潮が長州藩を一気に雄藩にまで押し上げたのは間違いないでしょう。

さて、ここら辺で、山口県立美術館公式の毛利敬親についての動画見ておきましょう。(「最初にこれを見せれば良かったじゃんww」っていうのは無しでお願いしますね♪)

この動画を見れば、敬親の全てがわかると言っても過言ではないと思います。前半部分では毛利敬親は何も発言しない人物のように描かれていますが、LINE画面の後のフレーズ「ムチャぶりを維新に導いた男。」というのが彼を表すのにふさわしい言葉でしょう。


「歴史にifは無い」というのはよく言われることですが、ここらへんで少し考えてみようと思います。

が、その前に、「歴史にifは無い」という言葉について調べたら少し面白かったので、ちょっと脱線させていただきます。


このサイト↑によると、「歴史にifがない」という言葉の出典はエドワード・ハレット・カー(元・ケンブリッジ大学国際政治学教授,元・国連世界人権宣言起草委員会委員長。)の著書、”What Is History”(邦題:歴史とは何か)だと書かれています。彼は、この本の中で、「might-have-been school」と呼ばれる、「こうだったらよかったのに派」「未練学派」を批判しています。皮肉のような意味で使われていたようですね。

でも、歴史の「もしも」を考えるのって楽しいですよね?自分が「もしも」を考えたいあまり、その主張のサポートとなりそうな記事を探しました。

一つ目は、

東洋経済ONLINEのこの↑記事です。この記事では、もっと「歴史のifを考えるべきだ」と書かれています。

そして、あれ?そういえば?と思い立ったのです。あの記事にも「歴史のif」について書かれていなかったか?と。

そう、この伝説の記事です。読んでない方は、ぜひどうぞ↑。これで、2つの強力なサポートを得て、

胸を張り、堂々と「歴史のif」について考えることにしました。

設定が難しく、わかりにくいところがあるかもしれませんが、ご容赦ください。


もし、もしもですよ。毛利敬親がその当時のリーダーによくみられたようなパワフルで、自分で何もかも決めて藩を引っ張っていくような藩主だったら長州藩は、日本はどうなっていたのでしょうか。

パワフルな毛利敬親、便宜上パワ敬親としましょう、は自分で信念があるので、自分の意見に沿ったもの以外の意見は聞き入れず、猪突猛進に進んでいくでしょう。

家臣が何を言っても聞き入れず、忠告されても意に介さず進んでいくのでしょう。そして、最も重要なこととして、他の人からの意見を取り入れる気がないのですから身分に関わらず優秀な人材を取り立てるという発想もないでしょう。となれば、長州から生まれた志士たちも生まれないということになります。

もし仮に、パワ敬親が結果としては、同じこと(つまり、幕府を倒して開国することで強い日本を作る)を目指して進んだとしましょう。それでも、日本は今のようにまとまって、開かれた国にならなかった可能性が多々あります。なぜなら家臣たちの心が、パワ敬親から離れている可能性が高いからです。

リーダーがあまりにも強いと、その下にいる人たちは、(同じことをしようと思っていたにしろ)何かしらの不満を抱く可能性があります。自分達が決定に関わることができたという感覚(当事者意識)が必須だと思います。

また、リーダーが強く、意見が取り入れられないことがわかると、ほとんどの人が反対意見を言うことを諦めるでしょう。そうすると、誰も止める人がいなくなり、パワ敬親は暴走を始めてしまう可能性があります。

https://jmmaportal.com/actordb/adb002024/ 花神 金田龍之介


それでは反対に毛利敬親が自分の意思が全くない”弱い”リーダーだったらどうでしょう?

便宜上ヨワ敬親としましょう。
ヨワ敬親は、パワ敬親とは違って、家臣の意見を『全て』聞き入れることでしょう。Aさんがaといえば、aというし、Bさんがbといえばbと言う。絵に描いたような優柔不断な人だと想像できます。もちろん、全ての意見を受け入れればうまくいくわけではないですよね。

また、ヨワ敬親だった場合、家臣は藩主の機嫌を取っておけば何も言われる心配はありません。胡麻を擦り、実権を奪い、結果として藩のシステムが腐敗していくことが予想されます。そうなれば、家臣は自分の地位を守りたいわけですから、優秀な人材は要りません。優秀な人材は集まらず、ただどんどん腐敗していくでしょう。

腐敗した藩が日本の将来を考えて行動することがないというのは容易に想像することができます。

https://jmmaportal.com/taigadrama/taiga500636/ 竜馬が行く 勝見延章

こうやって、「If」について考えてみると毛利敬親がいかに「絶妙な」リーダだったかがよくわかります。

清水義範は「偽史日本伝」の中で、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」

敬親は、決して、自分の考えだけで突き進むようなことはせず、反対意見でも聞き入れます。しかし、それでいて、自分の意思が全くなかったわけではなく、要所要所では人を見極め、決断を下していました。

そんな人が藩主だったことで生まれた文化が、出身に関わらず、優秀な人が自分の意思を全うしつつも、その基本には藩主毛利敬親への忠誠があるという一見矛盾したようにも見える長州の姿です。

その長州が、優秀な人材を多く輩出し、彼らが間接的にも直接的にも現代の日本を形作ったのはいうまでもないでしょう。

もちろん、毛利敬親が完璧な人だったとは思いません。しかし、圧倒的に情報が少ないので、批判的な情報というのもほとんど見つけることができないのです。

私が、この文章を通してみなさんに伝えたかったことは、こういうリーダーの形もあるよということです。

とぉっても昔の、でも新しいリーダーシップの形でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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