人間は愚かだからこそ発展して、これから先もそれによって生き延びるかもしれない。
昔々、そのまたもっともっと昔、あるところにAという男がいた。Aは雷に惹かれていた。雷が落ちると、いつもすぐさま走っていって、何が起きているのかを観察しようとした。周りの人間はそんなAを愚かだと言った。雷のような危険なものに近づくなんて。全然合理的じゃないと言った。ある日、雷が落ちた場所から自然発火がおこった。みんなはおそれ、近づこうとしなかった。でも、Aは違った。いつものように近づき、その火を観察した。Aは火を枝に移し、自分の場所へ持ち帰った。それは、暖かかった。Aは火を絶やすまいと、少しずつ燃えそうなものを足していった。周りのみんなは、そんなAをおそれ、自分たちから遠ざけようとした。みんなにとって、火というのは全てを燃やし尽くす恐ろしいものだったからだ。愚か者は、彼らのコミュニティーにはいらない。Aは一人になった。Aは、ある日、火を使うことで、食べ物がおいしくなったり、腐りにくくなったりすることに気がついた。Aは火を使って、料理をするようになった。ある日、村を謎の病が襲った。それは、ある特定の魚を食べると体調が悪くなり、最悪の場合死に至るという病だった。しかも、たまたまその年は、他の食べ物が不作で、食べ物が少なかった。みんなは、小さなグループに分かれ、食べ物を奪い合った。しかし、ひとりぼっちのAはその魚の他に食べ物を奪う力もなかった。だから、その魚を焼いてみた。そして、食べた。みんなは、また嘲った。あいつは愚かだと。でも、Aは元気だった。火を通すことで、病原菌は死滅していたのだ。みんなは、何かが違うと気がついた。そして、それが、火というものが持つ力だということにも徐々に気がつき始めた。何人かがAにアプローチし、火を分けてもらった。そしてそれは瞬く間に広がり、人類は、火と共にその運命を歩み始めた。Aはもう愚か者ではなくなった。
こんにちは。ご無沙汰しています、やおきです。冒頭の物語は、本当に物語で、科学的な根拠とか何もなくて、ただただこの記事のテーマを理解しやすいようにという思いで書かせていただきました。(いつものように写真は私が撮った適当なものです文字疲れのありませんように。)
今回のテーマは、「愚行権」とそこからの私の勝手な拡大解釈です。先に、この記事で言いたいことを書いておくと、「愚行」こそが人間を人間たらしめているものであって、そしてそれこそがこれからの私たちに必要なのではないかというお話です。とは言っても、え?なんじゃそれ?って感じですよね。(そうじゃなかったら、この記事の意味がなくなっちゃうので、そういうことでお願いいたします)
久しぶりに文章を書くというのに少しドキドキして逸る気持ちと暴走する指を抑えつつ、まずは、愚行権とはなんだというところから。
お馴染み、wikipediaより。愚行権というのはいうなれば、「愚かなことをする権利」です。「愚かな」という言葉がちょっとピンとこない場合は、「無駄なことをする権利」とも言えると思います。
では、それが何を意味しているのか。これは本当にいろいろなことに関わってくる話なんです。だからこそ、こうやって記事を書いているわけで。
まずは、民主主義/自由主義の中での愚行権。
人間は、いつも合理的で有用なことばかりをしているわけではありません。例えば、お酒をたくさん飲むとか。ギャンブルをするとか。合理的な判断という視点から見れば、必ずしもそうではない行為というのは現代社会にたくさんあります。場合によっては、それが大きな問題となることもあるわけで。例えば、酔っ払い同士で喧嘩になったりとか、ギャンブルで破産して経済的に苦しくなったりとか。もっと、広い目で見ると、スポーツだって「愚行」に入るかもしれません。どんなにスポーツが上手くなったところで、車より早く走れることはないし、みる人も、合理的にというよりは、熱狂のために観戦します。それさえも、経済的合理性とか、生き物としての合理性からみれば、いわば、「無駄な時間」と捉えることもできるでしょう。
じゃあ、それを、規制して禁止すればいいじゃないか。そしたら、「愚行」という「無駄」がなくなって、もっと理想の社会が実現できるじゃないか。というふうに思われるかもしれません。でも、本当にそんな社会に住みたいでしょうか?誰もが合理的なことをしていて、すること全てに理由がついていて。私は、そんな社会は少し窮屈だし嫌だなというふうに感じます。
だって、休日無駄にゴロゴロしてるだけでも叩き起こされるんですよ?
私のこのブログだって、愚行だと分類されるかもしれません。というかされるでしょうね。
綺麗で一つの濁りもない澄み切った社会よりは、澱みもあって、いろんな人がいて、そういう社会の方がいいなと個人的には思います。だからこそ、この愚行権というのは、大切だなと。
もちろん、この愚行権という考え方は、危険な部分もあって超極端に解釈するともうなんでもしていいじゃんっってことになってしまう可能性もあります。例えば、ポルノだとか麻薬とかは現代社会でもグレーゾーンというかそれは「ダメな愚行」というふうに分類されますし、私も個人的にはそれには賛成です。だから、wikipediaの定義にも「個人の領域に関する限り」という条件がついてるわけで。言うなれば、公共の福祉に反しない限りにおいてのみというのが大前提としてあるわけです。
もちろん、この「公共の福祉」も誰がどう線引きして、どこが線なのかというのは難しいところですが、とりあえずここでは「他人を傷つけないこと」という簡単な定義にしておきたいと思います。
というふうに、かなり難しいテーマではあるのですが、私は、愚行権こそが自由主義/民主主義の根底にある必要不可欠な考え方なのではないかなと思っています。
というのが、一つ目。
え、と思った方。まだまだここからですよ。というここからが私が本当に書きたかったこと。冒頭の物語もこれから書くことにより関係しています。
それは、人類の発展は全部「愚行」から生まれていて、それこそが、これから先の人類に必要とされる能力なのではないかということです。
例えば、冒頭の物語で書いた火というのもおそらく、当初はそれと関わるなんて愚かなこととされてきたでしょう。火を使わなくて人類は生き延びていたわけで、そう考えると火は無駄なものだと考えらていたというふうに想像するのもそんなに難しくないような気がします。
それだけではなく、例えば、科学技術と呼ばれる私たちの身の回りにある諸々。私が今こうして文章を書いているmacbookだって、なくても生物的には生きていけます。つまり究極的な観点から見ると無駄だと言えるでしょう。車だって、電車だって、言うなれば水道だって、「愚行」から生まれたといえるでしょう。
でも、私たちは、それらをまたはそれらを使うことを「愚かだ」「無駄だ」とは言いません。なぜか。それは、
「もう愚かじゃない」からです。
何が愚かで、何が無駄かっていうのは、時代によってそこにいる人々によって決められるもので、そう考えると絶対的な「愚かなこと」なんてものは存在しません。宇宙開発なんてその筆頭格でしょう。昔、宇宙に出ようと考えた人々は、長い間「愚かだ」と後ろ指をさされてきました。「そんなことよりちゃんとした仕事をしなさい」といわれた人も多かったでしょう。でもそれが、今では、人類史の最先端です。年々活発になり、人類移住計画も具体的なタイムラインが示されるほど。もう、宇宙開発を「愚かだ」という人はそこまで多くはありません。
つまり何が言いたいのかというと、「愚行権」というのは、ただの権利とか自由などではなく、それこそが人類に必要なスキルなのではないかということです。
私がこれをより強く感じるようになったのは、Chat GPTを代表とするAIテクノロジーの発達を目の当たりにしてからです。私の通う高校でも、Chat GPTの使用は日常的に行われており、私自身もよく使います。本当に、すごいです。もちろん、完璧に完成しているかと言われればそうではありませんが、その能力というか、できることに空恐ろしさすら感じます。(これについてもいつか書きたいなと思っています)
Chat GPTと対話?をしていて思うのは、
合理性の塊がいる、、、、
ということです。こちらが質問したこと全てに何かしら解釈を見つけ、レスポンスを返してくれます。タイムラグも少なく、正直言って、Chat GPTと話すのが人間と話すより楽だと感じることすらあります。論理的だし、効率的です。(たまに変ですが笑)
これは、多くの人が「人間の仕事を奪われる」と危惧するのも頷けます。物語も描けるし、論文も書けるし、コーディングだってできちゃいます。まるで万能のように感じてしまうのも無理はありません。ただ、私は個人的にはそこまで危機感は感じません。ましてや、Chat GPTを禁止するべきだというのには反対です。
またやおきの変な自信でそんなこと言ってるんじゃないだろうねぇなんて思わないでください(それも少しはあるかもですが、、)
私がそう思う理由は、Chat GPTと人間は違うし、共存できると思うからです。もちろん、AIは、合理的な作業は得意です。ただ、「愚かなこと」はできません。私はAIエキスパートでもなんでもないですし、技術的にどうなのかとかは全く分かりません。なので、一応、Chat GPTにも聞いてみました。すると、
というふうに、非合理的な行動はできないということでした。確かに、合理的なプログラムに基づいているので、非合理的なアウトプットは不可能というのは理にかなっているような気がします。もちろん、非合理性を合理的に作り出せるのかというまた新しい興味深い問いは生まれますが、それはまた今度。
というふうに、Chat GPTと関わっていく中で、これからの人類がAIと共存するためにも、
「愚行力」
というのは必要不可欠なのではないかというふうに改めて感じるのです。
どんなにバカバカしいことでも、それに情熱を感じるならとりあえずやってみる。もちろん、全ての「愚行」が何かにつながるわけではないでしょう。ましてや、人間一人の人生のうちに何かにつながることなんてほとんどないと思います。だからこそ、「楽しい」とか「これをしたい」という気持ちが大切になってきます。
役に立つとか立たないとかではなく、好きで何かをできるか。
なんだか結局、最近よく巷で言われてることじゃんって感じるかもしれません。でも、多分そうなんだと思います。好きなことを追求する力というのは「愚かなことをする力」をもうちょっと受け入れられやすい言葉に言い換えただけであって、本質的には同じなのではないでしょうか?
愚行権というのは、日本のような民主的な国にはある程度当たり前にあって、あまり普段は意識しないコンセプトですが、ここら辺でもう一度見直してみてもいいのではないでしょうか。
受動的な愚行権ではなく、能動的な愚行。
それが、これからの社会(大袈裟にいうなら人類)に必要な考え方のように思えるのです。なんだかまだまだ書きたいことがあるような気がするのですが、もうこれ以上散らかすと訳がわからなくなりそうなので、今回はここら辺で。
それではまたっ
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