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本を読んで「わたし」を知る。

「発達障害の本を読む」


14冊目の「発達障害」関連の本を読み始めたときに、ADADの長所という箇所に書いてあることが、私にぴったりと当てはまりました。「なるほど、そうだったのかー」と妙に安心しました。

私は「発達障害」が世間に認知されることは、よいと考えています。同時にこれって「個性」でいいんじゃないの?とモヤモヤしていました。人それぞれに得手不得手が、あるのが当たり前です。
でも「障害」だと断定されると「親」は悩みます。私も「普通」が一番だと思っていました。私の場合、息子の知的障害を「まあこれが息子だから、仕方ないか」と受け入れるまでに10年かかりました。でもさそもそも「普通」ってなんだろう・・・

学校の「型」に当てはまらなくて、「不登校」になり学校に行けな行くても、「まあいいか」と認知されてきた世の中の変化は悪いものではないと思います。「発達障害」が世間に知られてきたのも、同様でしょう。でもやっぱ「親」は悩むのよ。

「わたし」


本を読んでいて、自分自身がADHDに当てはまっていると知り、思わず笑っいました。・・・周囲の関係性に悩み、「生きづらさ」感じていた・・・どこへ行ってもあるだろう人間関係の悩みも、「なんだ障害特性か!」と割り切っちゃうと、気が楽になりました。受容することは良いも悪いも言い難いのですが。

病院の詰所に人間関係、指導教授との人間関係をすべて、「発達障害」だったからと、まとめてポイとしちゃうこと。あまりにも単純思考である危うさを感じつつ、妙に納得して安心している自分がいました。どのみち自分が納得したら、それでいいのです、私は既に大人なので。

さて現在の私の状況をまとめてみると、
「発達障害、ADHD(自己診断)」で「中高年の引きこもり(状況的に)」で、無職の「社会不適応者(自称)」です。なんだか現代社会の最先端みたいです。

「これでいい」

結論として、この状況下の私も「わたし」の1部分であり、その他、全部「わたし」であり、私の「個性」だと考えました。

「もうなんでもいい、私はわたしだから。これでいいや」
さすがにこのジャンルの本を読むのことに飽きたので、しばらく休憩します。


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