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退路を断って単行本執筆期間中、手持ちの生活費を使い切ったライターが生活保護を受けたときの話


菅総理の例の発言の影響で、生活保護に関する関心が高まっています。
記憶をまさぐる限りでは、この盛り上がりはサブプライム問題で景気がダダ下がりし、「派遣村」が出現したとき以来です。

「十年ひと昔」と言いますが、派遣村のことを覚えている方はどの位いるでしょうか?

今日は、僕が半年ばかり生活保護を受けていたときの話を書きます。

本編に入る前に、生活保護という「制度そのものには」一切ケチを付けるつもりがないこと、単純に現場の運用の仕方が「あぼーん」な自治体があるので気をつけましょうと言いたいだけ、ということを明記しておきます。
 
生活保護制度自体は必要な制度です。
しかし予算を抑えたい自治体と「健康で文化的な(最低限度の)生活」をしたい利用者の間にミスマッチがあることは知って頂きたいです。


●「派遣村」とは?

「派遣村」こと「年越し派遣村」が設置されたのは2008年〜2009年の年末年始です。
全国各地で期間工や派遣労働者が雇い止めを喰らい「ネットカフェ難民」という言葉が一躍脚光を浴びました。
生活困窮者が年を越せるようにと、日比谷公園をはじめ全国各地でボランティアによる支援体制が整えられました。

このとき派遣村に保護された人たちなどに対して、共産党や社会党の党員、弁護士などが役所に同行し、受給のハードルが高い生活保護を受けられるようにサポートしました。


●僕が生活保護を受けた背景

2008年から翌年に掛けて、僕は2冊目の単行本を書き下ろしで執筆していました。
通常は取材が完了し、ネタが揃ってから書き始めるのかもしれません。
しかし僕は企画が通ってから、取材しながら書いていました。そのため正確には覚えていませんが、取材と執筆に1年くらいは掛けていたはずです。

当時は現在のようにライターというのはメジャーな存在ではなく、かなりの経験者以外仕事もありませんでした。
(そもそもWebメディアは数える程でしたし、オウンドメディアなど影も形もない頃です。Twitterはありましたが「ヒウィッヒヒー」以前だったと思いますし、ブログサービスは谷間に差し掛かっていてどんどんサービスが終了していました。つまりまだ紙が中心だった時代です)

当然ながら、ギャラが入ってくるのは本が出た後です。それまでは無収入で作業を進めなければなりません。
有名な作家や映画監督、アーチストなども貯金を食いつぶしながら作品を制作します。その辺りの条件はいっしょです。
僕の場合、手持ち資金がゼロに近かったため、1章書き上げる毎に作業を中断してアルバイトし、多少お金が貯まった段階で、また取材執筆に戻り……という流れを繰り返していました。
(ちなみにアルバイトは手っ取り早くお金が手に入る肉体労働です)

そんな風にバイトをはさみながら本の作業を進めていたのですが、サブプライム不況の余波を受けアルバイトにありつける機会はどんどん減っていきました。
そしてついに1ヶ月で10回に満たない回数になってしまったのです。

本を書き終え、ゲラのやりとりも完了したのは2月か3月くらいだったと思います。
その頃には完全に手持ち資金が尽きていました。
「本を書く」という仕事をしていたので、怠けていたわけではありません。
しかし現実問題として、所持金は数日分の生活費しかなく、本のギャラが入るのはその年の10月の予定でした。
執筆が完了してから半年以上先の話です。
(たぶんこういうことは、あまり知られていないのではないでしょうか?)

なぜこうなるかというと、原稿が校了となってから実際に店頭に並ぶまで2〜3ヶ月掛かるからです。
その間、編集者は表紙をデザイナーさんに頼んだり、印刷会社と連絡を取り合ったり、「製品」としての書籍を産み出す作業をこなします。
そして本が店頭に並んだのが6月。
この版元ではギャラが支払われるのは発売の4ヶ月後なので、10月払いとなるのです。

原稿の直しが終わって自分の手から作品が離れても、入金は8ヶ月近く先の話。
その間どうしろというのでしょう?

もう数日分の食費しかないので、月払いのアルバイトは出来ません。
給料日までお金が保たないからです。
フリーランスでしたから与信がなく、キャッシングで急場を凌ぐことも出来ません。

真面目に働いた結果がこれです。
あなたならどうしますか?


●パンクロックが誕生したのは生活保護制度のお陰?

僕は迷うことなく生活保護を受けることにしました。

大学生のとき読んだ本に出ていた話です。
1970年代後半から80年代初頭に掛けて、イギリスでパンクロックが爆発的に流行りました。
このときバンドマンたちは生活保護を受けながら、音楽活動していたと言います。
当時のイギリスはサッチャー政権で「英国病」と揶揄されるほど経済が低迷していました。若者には絶望的と言っても差し支えないほど仕事がなく、生活保護で生計を立てることは珍しくありませんでした。

そういう世情にあって、駆け出しのミュージシャンたちは世間一般の若者たちと同じように、生活保護を受けていたのです。
パンクスの衣裳が穴あきだったり、安全靴だったりするのは、その当時の世相と無関係ではないでしょう。
浮いた労働時間はバンド活動に充てられました。
当時のイギリスでは生活保護を受けながらバンド活動することはありきたりで、恥ずかしいことでも惨めなことでもありませんでした。
いわばベーシックインカムを受取りながら、音楽に打ち込むような感覚です。

これと同じことをやる良いチャンスではないか?

実際無一文でしたし、仕事はありませんでした。
そして利用出来る制度がそこにあるのです。

僕は横浜スタジアムの前に張られた「派遣村相談所」のテントに向かいました。
そうして社会党の党員の方に付き添われ、役場の「生活支援課」の職員と面談しました。
よく知られている通り、生活保護受給希望者は水際作戦で追い返されます。
しかし共産党や社会党、あるいは貧困者支援団体の担当者に付き添われていくと、高確率で審査が通るのです。
しかもこのとき世間は「派遣村」の話題で持ちきりでした。
横浜スタジアムの真ん前にテントが張られていたくらいですから、役場でも噂になっていたはずです。
かなりハードルが下がっていましたので、あっさり受給が決定しました。


●今回のまとめ

今回の内容をまとめると

単行本が書き終わってから印税が振り込まれるまでに(場合によるが)8ヶ月は掛かる
 →ギャラが出るまで生き延びる算段を考えましょう。貯金があれば言うことなし。
生活保護費の申請は社会党や共産党の人と一緒に行きましょう
駆け出しのミュージシャン、役者、作家などが修業時代に生活保護で生きていくことは、サッチャー時代のイギリスでは当たり前だった


●つづき、読みたいですか?

……その後の流れに関して回を改めて書こうと思うのですが、みなさん読みたいですか?

親はどうしたのか、毎日どんな風に過ごしていたか、ケースワーカーの定期訪問、保護期間中に本が発売され宣伝をしなければならなかったこと(「生活保護を受けている著者」ってかなりレアでは?)、宣伝経費と保護費の取扱いの関係で役所と揉めたこと、などなど他の人には書けないネタが色々あります。

皆様からの反応をみて、つづきを書くかどうか考えます。

「生活保護受けたコイツ、普段どんなの書いてるの?」という疑問への回答。
僕のポートフォリオです▼


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