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箱庭

過去を思い返していると、視界というか、意識は周囲の景色に溶けている。空間を一瞬で飛び越えても、音が途切れても、あらゆる方向へ映像は流動している。やはり記憶は頭の中の時間である。
僕はこの頭の中の運動が、”箱庭セラピー”の箱の中と同じように、自身と対話している状態だと思っている。実際の箱庭セラピーは、患者さんが一つの世界に見立てた箱の中に何かの象徴的なフィギュアを配置する行為を通して、彼らの無意識の表現の理解を助ける。それと比べると、僕の箱庭では自身の気づいていない統合性に触れるというよりも、今の願望やストレスを自覚するというレベルである。それでも、回想中に「自分はこうだったはずだけど、今は違う」「今はそんな気分になれない」「大好きだったけど嫌い」のような発見があると、その瞬間に今後の人生の岐路での正しい判断に繋がった気がするから、セラピーで大体の意味は合っている。
しかし、記憶に浸るなんて現在を満足していない現れのようで、自分に対してどうしても言い訳がましくなる。たとえそれが図星だったとしても、回想は現実逃避と見せかけて未来志向だよと。記憶の時間はこうしている間にも進んでいるのだから、内省には今の姿が、その先には当然未来の願望がある。そう、実際は以前食べた〇〇のラーメンを食べたいと思う瞬間ぐらいに普通の出来事。味の感動は思い出せるのにどうしても口の中で再現できないゆえに、実際に食べに行こうとするぐらいの日常。そして、当たり前に食べた直後から食べている最中の記憶をほとんど失くしてしまうのだが、とにかく、それと同じように五感のすべてで記憶した強烈な体験は、直ぐにどこかへ消えてしまうゆえに再現欲求を擽ってくる、ということである。もう二度体験できない体験ならなおさらそうに違いない。ただ、快楽のために追憶するのはわかるが、悲しい記憶を繰り返し思い出すのはそこまで楽しくない。しかし、それはそれで非日常さゆえの再現欲求なのか。質を問わずこの一連の回想を一言に郷愁のせいにしてもいいのかもしれないが。


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